唾液はどこから出ているのか?、目の動きをコントロールする不思議な力、人が死ぬ最大の要因、おならはなにでできているか?、「深部感覚」はすごい…。人体の構造は、美しくてよくできている――。外科医けいゆうとして、ブログ累計1000万PV超、Twitter(外科医けいゆう)アカウント9万人超のフォロワーを持つ著者が、人体の知識、医学の偉人の物語、ウイルスや細菌の発見やワクチン開発のエピソード、現代医療にまつわる意外な常識などを紹介し、人体の面白さ、医学の奥深さを伝える『すばらしい人体』が発刊された。坂井建雄氏(解剖学者、順天堂大学教授)「まだまだ人体は謎だらけである。本書は、人体と医学についてのさまざまな知見について、魅力的な話題を提供しながら読者を奥深い世界へと導く」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。好評連載のバックナンバーはこちらから。

ヒルを体に吸いつかせて患者の血液を除去…19世紀頃まで行われた衝撃の「治療法」とは?Photo: Adobe Stock

アスクレピオスの杖 

 世界保健機関(WHO)のロゴマークをご存じだろうか? 国連のシンボルの中央に、蛇の巻きついた杖が大きく描かれている。これは「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、古くから世界中で広く用いられている医療のシンボルマークである。

 アスクレピオスとは、ギリシャ神話に登場する名医である。紀元前五世紀頃の古代ギリシャでは、その神殿「アスクレペイオン」が病人の治療施設になっていた。今私たちが享受している医学のルーツは、古代ギリシャにあるのだ。

 そして、この頃にギリシャで生まれ、今でも「医学の父」と尊ばれるもっとも著名な医師がヒポクラテスである。

 ヒポクラテスとその弟子たちが著した『ヒポクラテス集典』は、七〇篇を超える資料からなる医学書である。中でも、医師の心得や守秘義務、倫理観を説いた「ヒポクラテスの誓い」は、私たち医師が学生時代に教科書で勉強し、国家試験にも出題される重要なテーマだ。

 二千年以上前のコンテンツが、いまだに医学教育で用いられているのである。

 むろんヒポクラテスの偉業は、これだけではない。当時、多くの人が病気を神がかり的なものと捉え、いわば魔術的な治療を施されていた中で、ヒポクラテスは患者を丁寧に観察することの大切さを説いた。患者の脈拍や呼吸、肌のつや、尿、便など、多くの情報を熱心に記録し、症例集としてまとめたのである。

 当時の治療は、食事や入浴、運動などの生活習慣の改善や、薬草を用いたものであった。のちの医師たちは、こうした記録を参照して治療に生かすことができた。ヒポクラテスは、まさに世界最古の医療データベースをつくったのだ。

 ヒポクラテスは、四種類の「体液」のバランスが乱れて病気が起こると考えた。この「体液」を、血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液と呼んだ。人の体はこれらの体液でできていて、それぞれに独自の機能があるとした。

 現在は、黄胆汁や黒胆汁といった用語は存在せず、架空の理論であるにすぎない。だが、この「四体液説」は、その後二千年近く正しいと信じられ続けることになる。

 例えば、うつ病のかつての呼び名「メランコリア」は、ギリシャ語の黒(melas)と胆汁(khole)の造語である。黒胆汁が原因の病気だと考えられた名残であろう。

 また、「リウマチ(rheumatism)」は、ギリシャ語の「流れる(rheuma)」が語源である。体液の流れが停滞することで、関節などの腫れが起こると考えられていた名残だ。

ヒルを壺の中に備蓄する

 十九世紀頃まで広く行われた瀉血も、四体液説に基づくものだ。瀉血とは、血液を抜く治療のことである。余った血液を体外に排出することで体液のバランスが改善し、あらゆる病気がよくなると考えられていたのだ。

 医療の歴史において、瀉血は長らく人気の治療であった。静脈を刀で切開して流血させたり、ミミズに似た吸血動物であるヒルを体に吸いつかせたりして、患者の血液を除去するといった治療は日常的に行われた。十九世紀頃になってもなお、医師たちは患者の血を抜くためにヒルを壺の中に備蓄していたほどだ。

「ヒル」の英語である“leech”には、「医者」という意味もある。ヒルが「医者」自体を表す俗称として使われるほど、ヒルによる瀉血は長らく好まれたのである。

【参考文献】
『図説医学の歴史』(坂井建雄著、医学書院、二〇一九)
『医療の歴史 穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』(スティーブ・パーカー著、千葉喜久枝訳、創元社、二〇一六)

(※本原稿は『すばらしい人体』を抜粋・再編集したものです)