錦織圭、マリア・シャラポワ、大坂なおみ、ネリー・コルダ……指導した数々の選手を世界トップレベルに導いてきたトレーナー界のカリスマ、中村豊。彼に指導を受けた選手たちは、アスリートとして大幅なステップアップを遂げています。
中村はトレーニングによってのみ身体能力が向上するわけではなく、必要なのは「トレーニング」「リカバリー」「栄養」の3つのメソッドだと語ります。そして、この3つを適切に行えば、一般の人でも身心が健全に整い、若さを持続できると主張するのです。その実践方法を分かりやすく具体的にまとめたのが、中村の初著書『世界最高のフィジカル・マネジメント』です。
本連載では同書から「世界トップの選手に対する指導法」や「そこから導き出した誰もが健全な身心を獲得できるメソッド」をお伝えしていきます。今回は、プロのトレーナーとして歩み始めた中村に、最初に専属トレーナーの依頼をしてきた選手のエピソードをご紹介。それは世界のテニス界から大きな注目を集めた、ある天才少女でした。

『世界最高のフィジカル・マネジメント』の一部紹介。カプリアティの復活劇。トレーニング指導中の中村豊(写真:著者提供)

フィジカル・マネジメントとは何か

「フィジカル・マネジメント」。あまり聞き慣れない言葉だと思います。これは人が若々しく、健康で、ポジティブでいられるための秘密の法則です。身体と心を強く美しく整えることによって、10年後、20年後のあなたの人生を正しくマネジメントするのです。

 そのために必要なのは、「トレーニング」「リカバリー」「栄養」の3つのメソッドです。この3つのメソッドを実践することによって、健康な身体と永続する若さを手にすることができるのです。

 まず、この3つのメソッドを解説する前に、僕がどのようなキャリアを経て今の考えに辿り着いたかを、お伝えしたいと思います。僕が関わったトップアスリート達とのエピソードは、読者の皆さんに何かしらの刺激とパワーを与えるものだと信じています。

 元々プロテニスプレーヤーを目指していた僕は、1990年に高校を卒業してアメリカに渡り、ハリーホップマン・テニスアカデミー(現サドルブルックアカデミー)に留学しました。アカデミーには各国から世界を目指す精鋭が集まっていて、練習やトレーニングを続ける中で、次第に自分の実力を思い知らされることになります。

 プレーヤーとしての夢は諦めましたが、アメリカの最先端のスポーツ科学に触れるうちに、トレーナーという職業に魅せられるようになりました。そこで、アメリカの大学でスポーツ科学を学んだのちに、ハリーホップマン・テニスアカデミーに就職して、トレーナーとしての道を歩み始めたのです。

天才少女ジェニファー・カプリアティ
との運命的な出会い

 アカデミーには才能のある若きアスリートが大勢所属しています。彼らを指導している中で、さらに運命的なアスリートとの出会いがありました。そのアスリートの名はジェニファー・カプリアティ。

 カプリアティは、1992年、16歳の時に当時のテニス界の女王シュテフィ・グラフを破り、バルセロナオリンピックで金メダルを取って将来を嘱望されていました。しかしあまりに若くして注目を集めすぎたため、身心のバランスを崩しバーンアウトしてしまったのです。ちなみに、女子テニス界でプロツアー出場の年齢制限が定められるようになったのは、彼女を教訓としたものです。

 そのカプリアティが復活を期すため、アカデミーにやってきたのです。カプリアティのコーチは父親であるステファノが務めていました。僕が彼女のトレーニングを担当したことで、カプリアティの状態について色々と尋ねられるようになり、それがきっかけで交流が始まりました。そのステファノからある日突然、「明日から専属でトレーニングを見て欲しい。練習は2時からだから、よろしく」と言われたのです。まだ何の実績もない自分への依頼に驚きましたが、僕が試行錯誤しながらもチャレンジしていることを評価してくれたのだ、と素直に嬉しい気持ちでした。

 カプリアティの専属トレーナーに就任したのは2000年のことです。

グランドスラムの栄冠を
勝ち得たトレーニング法

 その頃、トレーナーをツアーに帯同させるというのは例のないことでした。それはトレーニングの重要性をいち早く感じていた、カプリアティの父親ステファノの先見の明だったのでしょう。

 当初はとにかく、試合前のウォームアップからクールダウンまで、自分の知識を総動員して全くオリジナルの指導を行いました。また、コーチでもあるステファノ、練習相手を務めるヒッティング・パートナー、僕、そしてカプリアティの4人で、朝食は毎日一緒にとってコミュニケーションをはかるようにしました。この情報共有の方法は、現在多くのチームで見られるようになっています。

 カプリアティがアキレス腱の故障を抱えていたこともあり、朝食の後には30分、入念にストレッチを行うことを日課としました。ストレッチの重要性が今ほど認識されていない頃でしたが、この指導法は功を奏したと自負しています。

 コート上の練習だけでなく、コート外でフィジカル・トレーニングを行うことによって、彼女のテニスは一変しました。試合中の運動量が増え、動きも俊敏になったのです。テニス界にも次第に「スポーツ科学」の考え方が取り入れられ始めたところでした。カプリアティはそれに先鞭(せんべん)をつけたプレーヤーだったと言えるでしょう。

 この2000年、カプリアティは全豪オープンで4強入り、ウィンブルドンと全米では4回戦進出に留まりましたが、確実にランキングを上げて年末にはトップ10間近にまで迫りました。そして翌2001年、カプリアティは全豪オープンで女王マルチナ・ヒンギスを破り、念願のグランドスラムの栄冠を得ます。そして続く全仏でも優勝。そのような劇的な場に身を置けたことは本当に貴重な経験だったと思います。

 また世界各地で行われるツアーに付き添ったことで、僕自身のスキルも格段に上がりました。そしてこのようなビッグチャンスを得て実績ができたことで、次への道が開かれていったのです。

(本原稿は中村豊『世界最高のフィジカル・マネジメント』から一部を抜粋・編集して掲載しています)