訴状、蹶起趣意書、宣言、遺書、碑文、天皇のおことば……。昭和・平成の時代には、命を賭けて、自らの主張を世の中へ問うた人々がいた。彼らの遺した言葉を「檄文」という。
保阪正康氏の新刊『「檄文」の日本近現代史』(朝日新書)では、28の檄文を紹介し、それを書いた者の真の意図と歴史的評価、そこに生まれたズレを鮮やかに浮かび上がらせている。今回は、日本中を恐怖に陥れたグリコ・森永事件の脅迫状から見えてきた犯人像と事件の背景についてお届けする。
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[第1挑戦状]
昭和59年4月7日(土)大阪中央郵便局投函
4月8日(日)に「サンケイ新聞」「毎日新聞」に送付
けいさつの あほども え
おまえら あほか
人数 たくさん おって なにしてるねん
プロ やったら わしら つかまえてみ
ハンデー ありすぎ やから ヒント おしえたる
江崎の みうちに ナカマは おらん
西宮けいさつ には ナカマは おらん
水ぼう組あいに ナカマはおらん
つこうた 車は グレーや
たべもんは ダイエーで こうた
まだ おしえて ほしければ 新ぶんで たのめ
これだけ おしえて もろて つかまえれん かったら
おまえら ぜい金ドロボー や
県けいの 本部長でも さろたろか
けいさつの あほども え─グリコ・森永事件
グリコ・森永事件と呼称されるこの事件は、昭和59(1984)年から60年にかけて起こっている。その発端は、昭和59年3月18日夜に江崎グリコ社長江崎勝久が兵庫県西宮市の自宅から、覆面姿の男らにピストルで脅されて拉致されたことに始まった。19日朝に大阪・高槻市内の公衆電話ボックスで「江崎グリコへの脅迫状」が発見されたが、その内容は「人質はあづかった」として、「現金10億円 と 金100kg を よおい しろ」というもので、身代金目的での誘拐であることがわかった。当時の新聞では、「欧米型犯罪の幕開け」と報じたが、確かに日本にはなかった新しいタイプの犯罪だったのである。