文芸春秋に入社して2018年に退社するまで40年間。『週刊文春』『文芸春秋』編集長を務め、週刊誌報道の一線に身を置いてきた筆者が語る「あの事件の舞台裏」。平成最大の未解決事件、世田谷一家殺害事件は、12月30日に事件発生から20年目の節目を迎える。いくつもの手がかかりがありながら、なぜ犯人を逮捕できなかったのか。(元週刊文春編集長、岐阜女子大学副学長 木俣正剛)
年の暮れに起きた一家殺害事件
二転三転する捜査方針
2000年12月30日に発生した世田谷一家殺害事件は、色々な意味で不幸な事件でした。もちろん一家が惨殺され、いまだに解決に至らない事件であることが最大の不幸ですが、発生が12月30日というタイミングも悪かった。
すでに捜査機関や報道機関が暮れの休みに入っていた上、警視庁捜査一課は英国人女性・ルーシー・ブラックマンさん失踪事件に大半の人数を割かれ(のち、殺人事件として立件)、さらに、もう1つの事件に次の控えチームが出動。そんな中、世田谷一家殺害事件の捜査には、経験が未熟な部隊が入っていたからです。
当時、私は週刊文春の編集長でしたが、すでに正月発売の合併号の編集を終え、年が明けるまで何もできない状態です。しかし、「少年A」両親の手記を担当した凄腕女性記者の森下香枝記者は、暮れから情報収集に入りました。彼女は後に文春を辞めて朝日新聞記者となり、さらに週刊朝日記者となってからも事件を追いかけています。
もともと遺留品が多く、これなら逮捕は簡単だといわれていたのに、長引いた理由はいくつかあります。犯行の残虐さと遺留品の多さから、相当心を病んだ人間の無秩序な犯行という考え方と、残虐さがこれまでの日本人の犯行パターンとは違うので外国人による犯罪ではないかという考え方に、捜査班が分かれていたからです。
そして捜査が長引き、トップが入れ代わるたびに方針がどちらかの方向に揺れ動きました。しかし現時点で、犯人については相当なことがわかってきていることは確かです。