経営の神様稲盛和夫#5

2022年8月、京セラや第二電電(現KDDI)の創業者で、日本航空の再建を主導した稲盛和夫氏が亡くなりました。19年7月26日に公開した有料会員向け記事を期間限定で無料公開します(文中の肩書は当時のまま)。

 1989年11月4日号のインタビューで、聞き手は、精神科医で評論家の野田正彰氏である。“稲盛教”と呼ばれた強烈な個性で、熱情集団“狂徒セラミック”を大企業に成長させた稲盛氏の経営思想に迫っている。

 

 高品質なセラミックスの製造を実現するために、均質化の研究にいそしんだ稲盛氏だが、企業経営もまた“均質化”が一つのテーマだった。全社員が「情熱と思い」を一つにし、目標にまい進する。だから、「同質性を最優先し、批判勢力は排除する」と言い切っている。

 

 組織の規模が大きくなればなるほど、多様な価値観が紛れ込み、いわゆる「大企業病」といわれるようにチャレンジする意識も薄れていくものだ。しかし稲盛氏は、企業の成熟とは平凡化であり、「安全だが成長性は落ちる」と断言するのである。

 

 後段では、日本がサービス産業中心の社会に移行していく中で、ものづくり企業はどうあるべきかについて語っている。

 

 インタビュー当時はバブル経済の真っただ中。多くの企業は手元資金を有価証券や不動産等の投資に回した。メーカーが本業で稼ぐ以上の利益が、財テクから得られた時代だった。忍耐と犠牲を強いられる地道なものづくりなどは新興国に任せ、繁栄した国だからこそ進める新しい道があるのではないか──。そんな浮かれた考え方も幅を利かせていた時代、稲盛氏は「それでいいのか。もう一度、ものづくりに目覚めよう」と問い掛けている。

(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

正しいと思えば
誰とでも大げんかができる

稲盛 私は大の内弁慶だった。母親の姿が見えなくなると何時間でも泣いていた。兄が1人、妹が2人、弟が1人いて、家は印刷屋をやっていた。母親の着物の裾をつかんで離さないものだから、母親は仕事の手伝いもできない、生まれたばかりの兄弟の面倒も見られなかった。小学校に行くようになっても、母親に付いてきてもらった。

1989年11月4日号記事1989年11月4日号より  拡大画像表示

 大変人見知りする。けれども、それが済むと、たちまち暴君になってしまう。4~5年では、中小派閥の大将だった。当時は少しどもりだったから、弁舌は爽やかではない。けんかも大して強くなかったが、自分のおやつをやったりして、子分どもの面倒を見た。

 私は大変怖がりだ。本当の経営とはケアフルなもので、それをやれる経営者は“びびり”でなければならない。鉄火場の場数を踏めば、決断はできるようになる。

 私は、パーティーへ行っても、知らない人へ声を掛けられない。部下が時候のあいさつに行ってくれと言っても、何を話したらいいか分からない。しかし、自分に言い分があり、正しいと信じていることがあると勇気が湧く。小学校でも、特定の生徒にひいきをする先生は許せなかった。役所だろうが警察だろうが、大げんかできる。私の経営はその連続だった。

──言葉やあいさつを社会的潤滑油として使う京都文化と、意味があることしか言わない、正しいと思ったら頑張るという鹿児島の田舎文化の壁を感じたのではないか?