「資本」と「資本主義」が持つ
過剰な意味を剥ぐ

「資本主義」とは、据わりがいいので使ってみたくなる言葉だ。「日本的資本主義」とでも言ってみると、一連の仕組みについて何かを語った気になる。従って、この言葉を封じられるとかなり調子が悪い。

 しかし、現実にそこにあるのは取引や生産の仕組みだけなのだが、おそらく「主義」という言葉が後半に付く影響で、例えば「資本が成長を目指すことを奨励するようなシステム」といった過剰な思想、あるいはニュアンスが追加されがちだ。

 ここで、さらに「資本」という言葉が持つ過剰な意味やニュアンスが混乱に拍車を掛けていることに気が付く。「資本」は、「商売の元手になり得る財産全般」の総称で、一部は生産の設備や土地などの実物資産であり、一部はビジネスの運転資金などにもなり得るが、その実態は、例えば「お金持ちの預金通帳の中の数字」にすぎない。それ自体が「運動法則」を持つような神秘的な物ではないのだが、「資本」とひとくくりにした途端に何らかの意志や法則性を持つものであるかのように扱われることが多い。

 率直に言って、このフィクションがよくできていたことで『資本論』が今でも方々で(しかも、かなり好意的に)読まれているのだろうが、現実の経済を理解する上では迷惑な話だ。

(図2)を見てほしい。「商売の元手になり得る財産全般」としての単なる資産(一部は「お金」)としての「資本」を中心に利害関係者を並べてみたものだ。

図2:「資本」を巡る利害関係者
(図2)「資本」を巡る利害関係者 拡大画像表示

リスクを取りたがらない人を
リスクテイカーが買いたたく構造

 現在、大きな流れとして、(1)安定した雇用と報酬を欲しがり、(2)主に企業が用意したジョブに就き、(3)他の労働者と取り替え可能な、「リスクを取りたがらない」【労働者タイプA】が、自らの生産性を下回る報酬で働き、「資本」に利益をもたらし、この利益を起業家の大富豪から零細のインデックス投資家を含む【資本家】が有利に吸収する流れが大きく存在する。

 世の中は概ね、リスクを取ることができる人が、リスクを取りたくない人を買いたたいてもうける仕組みになっている。

 ちなみに、一時期資本が稀少で専ら間接金融を通して供給されていた時代は【債権者】が多くの利益を資本から引っ張った。銀行の黄金時代である。

 今は、銀行や社債投資家の交渉力が強くないので、【資本家】が有利な利益の取り手になっている。