会社組織の中では「属人化」がネガティブなものとして避けられがちです。しかし、多くの未知なる価値が個人の感性を起点に生み出されていることを考えれば、属人的なるものを排除することは、未知にアプローチする可能性を狭める態度に他なりません。では、組織が個人の感性を前向きに生かしていくためには何が必要でしょうか。全てを説明しようとして論理化を急ぐのではなく、個人に根差した感性の中に面白さを見いだし、大切に扱うことの重要性について考えます。
説明できないと、新たな価値を見過ごす社会
今、デザインの「課題解決力」に注目が集まっています。ビジネスの現場に「デザイン思考」が浸透したのも、より使いやすく、よりエコに、より便利に……と、今ある課題を解決し、価値を高めるためにデザインの力を役立てたいという経営意識が反映されているからだと思います。一方、デザインにはもう一つ重要な力があります。理解できないけれど、心を奪われて立ち止まってしまう──。そんな「未知を可視化する力」です。
例えば1960〜90年代に世界的に活躍し、さまざまな家具や空間のデザインを手掛けた倉俣史朗氏は、まさに「未知」を現出させることに長けたデザイナーでした。氏の代表作の一つ『Begin the Beguine(1985年)』は、19世紀にデザインされた椅子にぐるぐるとスチール平棒を巻き付けて火を放ち、スチール平棒だけを焼け残す、という驚くべき手法で作られた作品です。椅子を椅子たらしめていた要素を全て焼き尽くした後に残る「何か」。そこにはおよそ合理的に言葉にできる意義はありません。しかし、見る者の心を強烈に揺さぶります。
私は2023年4月に開催された「ミラノデザインウィーク2023」に、氏へのオマージュとして『説明ができないこと』と題した作品を出展しました。「椅子を焼く」という行為を引用し、スチール平棒の代わりにガラス繊維で椅子の残像を描いたのです。タイトルの通り、この作品の意味や意義は言葉では説明できません。しかし、それをあえて形にし、理解できないものを体験できる場をつくること──。それは、違う視点から世界を見るきっかけであり、デザインの根っこにある価値だと考えています。
ビジネスでも、「説明可能であること」がますます重要視されるようになっています。主張にはエビデンスとソースが求められ、計画には数値化したベネフィットとリスクを添えなければならない。すると、「説明できないけどすごいもの」が存在できる余白がどんどん減ってしまいます。これも一つの社会問題ではないか、と私は考えています。