『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』著者の読書猿さんが「勉強が続かない」「やる気が出ない」「目標の立て方がわからない」「受験に受かりたい」「英語を学び直したい」……などなど、「具体的な悩み」に回答。今日から役立ち、一生使える方法を紹介していきます。
※質問は、著者の「マシュマロ」宛てにいただいたものを元に、加筆・修正しています。読書猿さんのマシュマロはこちら
[質問]
この世に存在してはならない人間はいない、というお言葉を何度か見かけました。どんな人も生きられる、生かすことができる社会こそが、誰にとっても生きやすい社会であることはよく分かります。全くもってその通りだと思います。
障害や貧困や病気など様々な困難にある人の生活を守ることは、翻っては自分の所属する社会が豊かになることも分かります。〇〇な自分なんて…という思想は、〇〇な人は生きてはならない、と他者に対して差別していることになることも分かります。でも、どうしても感情面で納得することができません。
私は、聴覚障害を持っています。できないことがたくさんあります。みんなが私を助けてくれます。電話を代わってくれて、接客も途中で代わってくれて、会話の内容を時々通訳してくれて…。たくさんの人のおかげで私は生かされています。本当に本当に感謝の気持ちしかありません。でも、やっぱり迷惑をたくさんかけています。みんなと同じように仕事ができなくて、足を引っ張っているとしか思えません。私ひとりを雇うより、普通の人を雇った方がよっぽど効率的です。客観的に見てどう考えても、私の存在は邪魔です。「こんな自分は居てはならない」という考えは「〇〇なあなたは存在してはならない、と他者を排除すること」と同値であることは分かっているけれども、納得ができません。理屈で納得するしかないのでしょうか。私の中にも差別する心があります。どのように考えれば、「どんな人も生きられる社会が、自分にとっても良い」と心の底から思えるのでしょうか。
会社のために、あなたが存在するのではありません。会社はそこで働くひとのために存在するものです
[読書猿の回答]
ご質問をいただいてから随分時間が立ちましたが、あなたの感情を納得させる言葉を、見つけることができませんでした。申し訳ありません。代わりに2つの話をしようと思います。ひとつはあなたが感情面で納得できない理由について、もうひとつは何故社会は感情だけでなく理屈を必要としているかについてです。
ですがその前に、私がどういうスタンスから説明を試みようとしているのか、先にお話すべきかもしれません。私の考えは、あなたのお考えと相容れないものかもしれず、読んであなたが余計につらくなってしまうものかもしれないからです。
まず私は、あなたがこの世界にいてはならないとは思えないし、「私ひとりを雇うより、普通の人を雇った方がよっぽど効率的」という考えにも賛同できません。それは世界や会社のためにあなたや私が存在するという考え方だからです。
私の考えでは逆に、会社はそこで働くひとのために存在するものです。苦手なこともできないこともある人たちが、足りないところを補い合うためにつくり維持するものが組織であり、会社もまたその一種だからです(全知全能なら組織は不要です)。
仕事における生産性(「普通の人を雇った方がよっぽど効率的」とお書きになっていますが同じことです)は、分業や道具の使用によって上がることから分かるように、個人の属性ではありません。
つまり生産性の低い人がいるのでなく、その人を生産性が低い形でしか生かせない組み合わせ=職場や社会の在り方があるだけです。
さて本題に戻りましょう。1つ目はあなたが感情面で納得できない理由についてです。
私達のものの見方や考え方は、それだけで独立している訳ではありません。様々な観点や思考は互いに繋がり合い引っ張り合っているし、行動を通じて自分の外へ働きかけたり、逆に行動に対する周囲の反応から影響を受けたりもします。
なので私達は自分の考え方や感じ方をスイッチみたいに切り替える訳にはいきません。自分の思考・感性だから(所詮は脳内の話だから)と変えたつもりになっても、思考が行動を変え、行動が周囲の反応を変え、反応が思考に影響を与え、いつしか元の考えに引き戻されたりします。
私達が抱いている「変えたいけれど、なかなか変えられない考え/繰り返し引き戻される考え」は、こうした行動や周囲の反応を仲立ちにしたフィードバック・ループによって維持されていることが多いのです。
私はあなたがどこで何をしている方が存じませんが、お書きになった質問から、次のことを推察します。自分のことを「助けられてばかりいる」「邪魔で迷惑な存在だ」とする考え方を維持しなければならないような、周囲からの反応を被る状況におられるのだろう、と。
言葉で明確に表されないまでも、「助けてやってる」「邪魔だ」「迷惑だ」と陰に陽に態度等を通じて表される中で、これまで生きてこられたのだと。そうした周囲の反応に対して生まれる悲しみも憤りも「感謝」という言葉で塗りつぶして、犠牲となったのが他ならぬあなたの感情であったのだ、と。
いろいろ決めつけて、申し訳ありません。
ですが、おそらく次のことは、ある程度確かなことだと思います。
私の書いた「きれいごと」はきっと、そうしたあなたの現実を変える力を何も持たず、結果、あなたの感情に受け入れてもらえる余地はほとんどもないでしょう。
にもかかわらず、あなたのご質問にお答えしようと思った理由は、ふたつめの、何故社会は感情だけでなく理屈を必要としているかについて、に関わります。
私は以前、次の記事で、質問に回答しました。
生まれてこの方医療と福祉のお世話になり社会的になんの生産性も無くただ生きているだけのお荷物である自分はとっとと死ななければいけないという義務感のようなものに囚われています
この解答の中でお話しているのは、あるべきこの世界の理想といったものではありません。
ここでお話したのは、近視眼的で僻みっぽいヒトという生き物の、個人の視点からは見えにくい、私達の社会の成り立ちです。
私達の祖先がサバンナでゆっくり今のような生き物になっていった頃には、文字も数字もなく、社会保障制度もありませんでした。なので、こうした社会の成り立ちを描くには、私達は生まれつき持っている直感や感情から一旦離れ、後天的に伸ばすことのできる理屈の力を使う必要があります。
そして、私達がどうやら祖先から受け取ったらしい(人を蔑むだけでなく、蔑んだ相手にその責任を押し付ける行為が、人の生きる場所で広く観察されることから、そう思わざるを得ません)差別感情についても、その感情が自分にもあることに気づき、ひどい事をしでかすことを少しでも減らすためには、やはり理屈の力をつかうしかありません。
私達の社会は最善には程遠く、理屈に合わない理不尽は日常茶飯事で、心を折るような残酷な事態に事欠きません。
それでも私は、自分の感情や直感を超えたものと、理屈の力をもって渡り合い続けようと思います。