「うっ、うっ、ひっく」
「なに泣いているの! 泣けば、ノルマが達成できるの! できないよねぇ! そんなのあなたが一番よくわかってるよねぇ! あ、三上、遅い。こんなギリッギリに来て。契約の見込みあるんでしょうねぇ」
自分にかけた暗示は、エレベーターの扉が開いて1秒、先輩社員の蛙でもひき殺したかのような嗚咽音と、入社前から豹変した上条さんの怒声という最悪な二重奏によって解かれる。あぁ、これ、やっぱりダメだわ……。
「ねぇ、みかんちゃん」
立ち尽くす私を、社会人になってもついてきたあだ名が呼び止める。声の主はアラフィフのベテラン社員だった。泉ピン子をイメージするといい。できたら『渡鬼』のテーマソングを流すともっといい。
「その服……なぁに」
「へ?」
「スカート、昨日と同じじゃん。ぶふふっ。化粧もへたくそすぎー。ファンデ、ムラになっててウケるわぁ」
彼女は、私の頭のてっぺんからヒールの先まで見て言う。そして、ゆっくりとどめを刺す。
「そんなんじゃ、彼氏できないよ。早くしないと売れ残るよ」
保険屋という仕事に就いたことに対して、騙されたと嘆くのは被害妄想かもしれない。けれど、求人パンフレットで強く私を惹きつけた一文に関しては、騙されたと嘆いても許されるのではないか。
産休育休取得率や、孫誕生休暇、介護休暇と並んで会社の福利厚生として挙げられていたのは、「LGBTQ+フレンドリー」。
私はこれに惹かれてここで働きたいと思った。ハピネス生命という社名はCMでも見たことがあったが、LGBTQ+の大規模イベントの協賛としても目にしたことがあったのだ。
現状はまったくちがった。だから私は、自分のことも明かせずに、「彼氏いないの」「結婚出産は早いほうがいいよ」「行き遅れるよ」「早く孫の顔見せてあげなきゃ」に、日々心を殺されながらも、笑みを絶やさぬスキルを磨いている。
「今月もノルマ達成するぞー!」
「おー!」
ハチマキを巻いたオフィス長の音頭に合わせて拳を突き上げる。毎朝の朝礼は、定期的に倒れる人や過呼吸を起こす人がいる。今日のところは大丈夫そうだ。そんなことでホッとしている、私にゾッとする。
「今月ノルマ未達成……折原、風間、篠原、三上……」
ノルマが達成できていない人は、名前を読み上げられて、いたたまれなさに心が殺される。でも、身体は生きている。ここから逃れるのに、自ら命を絶ったところで保険金は1円も出ない。入社直前に入らされた保険では、私が死んだら500万が出ることになっている。それが自殺だと0円なんて、なんだか損した感じがする。というか、死ぬよりも今はタイムスリップがしたい。どこかに「ドラえもん」はいないものか。『キテレツ大百科』は落ちていないものか。私は1年前の自分に会いたい。