「ビジネスと人権」をめぐる議論に多大な影響を与えた故ジョン・ラギー氏(ハーバード大学教授)は、2016年に開催された「国連ビジネスと人権フォーラム」での講演の中で、「企業には、SDGsの17の目標から自社にとって都合のよいものだけをいいとこ取りする傾向がある」と懸念を示した。事業の根幹を成す「人」の尊重は、SDGsの第8目標(働きがいも経済成長も)だけではなく、他の目標にも人権が密接に関係していると指摘。にもかかわらず、企業が自分たちに都合のよい目標を選んでしまうのは、マテリアリティ(重要課題)を設定する際、「人権に害を及ぼすリスク」よりも「ビジネスにとってのリスク」が優先されるためだと警鐘を鳴らした。

 実際に企業の統合報告書を見ると、マテリアリティやそれにひも付くSDGs目標を掲げているものの、その達成に向けた具体的な取り組みを、人権と事業の関係性を踏まえて情報開示できているケースはまだ少ない。人権というテーマは多くの企業にとって取り上げにくい類いのものであることがうかがえる。

 しかしながら、いまや「人権」が脱炭素と並ぶグローバルアジェンダとなったことは紛れもない事実である。欧米諸国では、企業活動による人権侵害を規制する法整備や輸入制限が進んでおり、加えて人権に関する情報開示や具体的な解決アクションを求める投資家からのプレッシャーも強まっている。環境と同様に、人権を軽視する企業はグローバルサプライチェーンから排除され、投資家から低評価を受ける可能性がある。

 だからこそ知っておかねばならないのが、「ビジネスと人権に関する指導原則」(以下「指導原則」)である。これは先のラギー氏が主導し、2011年の国連総会にて全会一致で採択された、ビジネスと人権を考えるためのバイブルといわれる。いまや多国籍に事業展開する企業の多くがコミットする指導原則を、あなたは読んだことがあるだろうか。

 実際にその全文に目を通してみると、人権と社会経済活動の複雑な関係性を解きほぐし、丹念に練り上げられたこの原則が、バイブルといわれるゆえんが理解できる。そのことを教えてくれたのが、今回のインタビューに登場する国際労働機関(ILO)駐日事務所の田中竜介氏である。ビジネスと人権のエバンジェリストとして日々奔走しており、田中氏いわく「迷った時は指導原則に立ち返る」。

 指導原則は「人権を保護する国家の義務」「人権を尊重する企業の責任」「救済へのアクセス」の3本柱で構成される(図表を参照)。このうち企業に向けられたのが第2の柱で、その責任を果たすために、①人権方針の策定、②人権デューディリジェンスの実施、③救済メカニズムの構築といった取り組みが推奨されている。日本でも①の人権方針を掲げる企業が増えているが、近年注目を集めているのは、②の人権デューディリジェンスである。

 人権デューディリジェンスは、自社および自社のバリューチェーン上にある人権への負の影響を調査・特定し、予防・軽減する継続的なプロセスであり、その実効性に対する客観的な調査や被害の是正も必要となる。さらには、この一連の取り組みについての情報発信と外部コミュニケーションが求められる。

 なぜバリューチェーンにおける人権リスクをくまなく調査し、対処しなければならないのか。企業による人権侵害は、レピュテーションリスクを発現させ、負の連鎖を引き起こしかねないからだ。不買運動、NGOや国際機関からの批判、ストライキや訴訟、ブランド価値の毀損、採用やリテンションへの悪影響、業績や株価の低下等々――。人権リスクの怖さは、身をもって経験した企業は痛いほどわかっている。

 しかし残念なことに、日本はILOが誕生した1919年からの原加盟国でありながら、「人権後進国」といわれても仕方のない状況にある。国連によるアンケートでは、SDGsにおける17の目標の中で「環境」への関心は高いが、「人権」への関心が低いという結果が出ている。また、世界的な人権格付け「企業人権ベンチマーク」(注)では、日本企業は軒並み低い評価を受けている。

 ニュースで知る人権侵害の多くは憂うべき問題かもしれないが、日常と遠いところで起きている対岸の火事と感じている人も少なくないのではないか。しかし、そうした認識はもはや許されない。ILOによれば、2021年時点で、全世界で強制労働に従事している人は2760万人。その86%に民間企業が関与しているという。地域別ではアジア太平洋が1510万人と最も多い。また、アメリカ国務省は、日本の技能実習制度が強制労働に相当すると「人身取引報告書」で指摘する。

 よって企業経営者は、業種や規模、事業展開している国や地域にかかわらず、あらゆる事業体が人権というテーマと無縁ではいられないことを直視する必要がある。でなければ、前述のリスクを被るばかりか、正しく対処することもできない。そのうえで企業が目指すべきは、「ディーセントワーク」の保障である。この考え方は、1999年に開催された第87回ILO総会でフアン・ソマビア事務局長が唱えたもので、ILOによれば「働きがいのある人間らしい仕事、より具体的には、自由、公平、安全と人間としての尊厳を条件とした、すべての人のための生産的な仕事」である。この振れてはならない目的を目指す入り口として、まず人権の「国際基準の理解」から話を始めたい。

注)国際NGOであるWBA(World Benchmarking Alliance)が公表する人権格付け。2022年度版では、調査対象となった日本企業22社のうち、平均点を超えたのは7社のみ。