兵庫県明石生まれの林せいが、大阪上町の荒物問屋・吉本吉兵衛(本名・吉次郎、通称・泰三)に嫁いだのは1910(明治43)年。家業そっちのけで寄席道楽に明け暮れていたという吉兵衛が、北区天満にあった寄席「第二文藝館」を買収して妻のせいとともに寄席経営に乗り出したのが1912年4月1日(現在の吉本興業創業日)。
2人は小寄席の端席を次々と買収し、「花と咲くカ月と翳るかすべてを賭けて」との思いから「花月」と名づけ、大正末には大阪だけで20余りの寄席を経営し、東京へも進出する。
経営手腕は吉兵衛よりせいのほうが上手だったようで、彼女は今日まで“伝説の女興行師”と語り継がれる。ちなみに1958年、山崎豊子が吉本せいをモデルに小説『花のれん』を書き、第39回直木賞を受賞している。翌年には東宝で映画化され、主演の淡島千影(吉兵衛役は森繁久弥)は大阪女の逞しさとせつなさを好演した。
やり手興行主の後継者と
女芸人との許されぬ結婚
せい夫婦は二男六女をもうけたが、長男以下5人の子どもが次々と夭逝した上に、次男(頴右)が生まれた翌年の1924年、吉兵衛が37歳の男盛りに急逝してしまう。せいは34歳の若さで未亡人になったのである。やがて昭和に入り、関西発祥の松竹と東宝が二大勢力となって興行が発展する中にせいは堂々と割って入り、業績を伸ばしていく。