華やかな舞台の裏では熾烈な競争が繰り広げられるのだが、せいは女の細腕で大阪女の“ど根性”を発揮した。そんな彼女が一人息子の頴右をいかに溺愛し、自分の後継者として期待していたかは理解できないことではない。

 1943年頃に出会った頴右と笠置シヅ子が、翌年には結婚を約束するまでの仲になったことはせいの耳にも入る。このとき、せいが2人の結婚に猛反対したという話はおそらく事実だろう。頴右はまだ学生で、おまけに笠置は9歳も年上である。

 OSSKやSGDで評判の歌姫だったとはいえ、笠置シヅ子もまた、かつてせいが日々面倒を見、育て、ときには札束で引き抜き合戦を繰り広げてきた同じ芸人であり、やり手興行師から見れば“商品”なのだ。また息子を溺愛する母親としてみれば嫁が誰であろうと、息子の勝手な恋愛結婚をすんなり許すとは思えない。

 このことは当時もマスコミの格好のネタになったようで、後々まで「ブギの女王と吉本興業御曹司の許されぬ結婚」と喧伝された。

 だが実際は、せいがかたくなに反対していたわけではなく、せいの心も徐々に軟化し、とくに笠置が頴右の子を身ごもってからは2人の仲は周囲も公認だった。せいの実弟で吉本興業常務・東京支社長の林弘高が笠置のもとへ“姉の使者”となり、ことは円満な方向へ進んでいたようだ。