どうにかこうにか生計を立てつつ、原稿料目当てに作家を志す
正気じゃないけれど……奥深い文豪たちの生き様。42人の文豪が教えてくれる“究極の人間論”。芥川龍之介、夏目漱石、太宰治、川端康成、三島由紀夫、与謝野晶子……誰もが知る文豪だけど、その作品を教科書以外で読んだことがある人は、意外と少ないかもしれない。「あ、夏目漱石ね」なんて、読んだことがあるふりをしながらも、実は読んだことがないし、ざっくりとしたあらすじさえ語れない。そんな人に向けて、文芸評論に人生を捧げてきた「文豪」のスペシャリストが贈る、文学が一気に身近になる書『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)。【性】【病気】【お金】【酒】【戦争】【死】をテーマに、文豪たちの知られざる“驚きの素顔”がわかる。文豪42人のヘンで、エロくて、ダメだから、奥深い“やたら刺激的な生き様”を一挙公開!

東京生まれ。本名・樋口奈津。代表作は『にごりえ』『十三夜』『たけくらべ』など。2004年から5000円札の肖像に採用された明治時代の小説家。東京府の下級官吏だった父の家庭に、次女として生まれる。幼少期から知的好奇心が旺盛で歌人・中島歌子の私塾「萩はぎの舎や」に14歳で入門。文学の道を志すも事業に失敗した父が亡くなり、17歳で借金を肩代わり。母とともに生計を立てるため商売するも儲からず……と、お金の悩みが尽きないなか死に物狂いで生き、日本初の女性職業作家となる。明治29(1896)年、肺結核により24歳で夭折。
17歳で多額の借金、質屋通いの日々
17歳という若さで多額の借金を背負う状況に追い込まれた一葉は、当初は質屋通いでなんとか糊口をしのぎました。
家財を片っ端から売り払って、どうにかこうにか生計を立てて貧しいながらも暮らしていたのですが、モノを売ってお金にかえるのには限界が訪れます。
原稿料で食べていこうと決意
そこで一葉は、小説を書いて、その原稿料で日銭を稼ぐことを思いついたのです。元来、本を読むのが好きだった一葉は、14歳のときに教育熱心な父のすすめで小石川水道町(現・東京都文京区春日)にある歌塾「萩の舎」に通っていました。
これは歌人・中島歌子が主宰する塾で、政治家や華族といったいわば“いいところの妻子”が教養を身につけるサロン的な場でした。
このころに『源氏物語』など日本の古典文学に触れて培った教養が、その後の一葉の作品にとても役立ちました。こうした背景があって、一葉は19歳にして小説家を目指すようになったのです。
日銭を稼ぐためストイックに書き続けた日々
一葉が小説家デビューしたのは、明治25(1892)年、20歳になる春のことでした。
東京朝日新聞(現・朝日新聞東京本社)の記者兼専属作家・半井桃水が、若手の作家向けに創刊した同人誌『武蔵野』の創刊号に、樋口一葉のペンネームで短編小説『闇桜』を寄稿し、初めて文壇に登場したのです。
文芸誌『都之花』には短編小説『うもれ木』を寄稿し、原稿料11円50銭を稼ぎ、そのうち6円を借金返済にあてました。翌年には『文學界』に短編小説『雪の日』を寄稿しています。
そのころは、それまでの常識だった難しい文語体(書き言葉)の文章ではなく、より読みやすい口語体(話し言葉)に近い文章を書こうという「言文一致運動」が盛んになっていました。明治維新による開国にともなって、話し言葉と書き言葉の区別のない新しい言文一致で書かれた小説が数多く発表されたのです。
文壇デビューはしたものの…前途多難
小説家への道が切り開かれ、借金返済の目処が立ったかと思いきや、一葉の人生は順風満帆にはいきませんでした。
彼女をデビューさせた半井桃水は、なかなかの男前だったそうで、はっきりとした男女関係には発展せずとも、一葉とちょっといい雰囲気になってしまったらしいのです。
これにムッとしたのが、桃水の門下の女弟子たちです。若い才能ある新人がいきなりやってきたかと思えば、憧れの桃水先生とちょっといい仲になって、同人誌ですぐさまデビューさせるというのですから、それは心中穏やかではいられないでしょう。
一葉は結局、デビューした翌年には桃水の門下を出て行かざるを得なくなり、「原稿料で借金を返済する」という道が閉ざされることになります。
※本稿は、『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。