ダーウィンの『種の起源』は「地動説」と並び人類に知的革命を起こした名著である。しかし、かなり読みにくいため、読み通せる人は数少ない。短時間で読めて、現在からみて正しい・正しくないがわかり、最新の進化学の知見も楽しく解説しながら、『種の起源』が理解できるようになる画期的な本『『種の起源』を読んだふりができる本』が発刊された。
長谷川眞理子氏(人類学者)「ダーウィンの慧眼も限界もよくわかる、出色の『種の起源』解説本。これさえ読めば、100年以上も前の古典自体を読む必要はないかも」、吉川浩満氏(『理不尽な進化』著者)「読んだふりができるだけではありません。実物に挑戦しないではいられなくなります。真面目な読者も必読の驚異の一冊」、中江有里氏(俳優)「不真面目なタイトルに油断してはいけません。『種の起源』をかみ砕いてくれる、めちゃ優秀な家庭教師みたいな本です」と各氏から絶賛されたその内容の一部を紹介します。
そもそも「生存闘争」とは?
「生存闘争(STRUGGLE FOR EXISTENCE)」。『種の起源』の中で、この言葉ほど誤解されているものはないだろう。
「生存闘争」という言葉を聞けば、肉食獣同士が闘って一方が殺されたり、ライオンがシマウマを殺して食べたりする残酷な場面をイメージする人が多いのではないだろうか。
もしかしたら、優しい性格のあなたは、こんなことを思っているかもしれない。
「私は、これからかぎりなく優しい気持ちを持って、みんなと仲良く助け合って生きていくことにしよう。ダーウィンが言うところの生存闘争みたいなことは、絶対にしないぞ」
しかし、残念ながら、そういうことはできないのだ。いや、「かぎりなく優しい気持ちを持つ」ことはできるだろうし、「みんなと仲良く助け合う」こともできるだろう。
この世界の過酷な現実
だが、それでも「ダーウィンが言うところの生存闘争」をしないわけにはいかないのだ。なぜなら、あなたは「生きて」いるからだ。
あなたがどんな生き方をしようと、とにかく生きているかぎり、あなたは生存闘争から逃れることはできない。それでは、ダーウィンの言葉に耳を傾けてみよう。
自然は喜びで輝き、世界は食物で溢れている。しかし、そう見えるのは、私たちの周りでのんきにさえずっている多くの鳥が、虫や種を食べて生きており、つねに生命を殺していることから目をそらしているか、忘れているからだ。あるいは、その鳥たちや、その卵や雛たちも、また猛禽類や肉食獣などの餌食になることを忘れているからだ。しかも、たとえ今は食物で溢れていても、巡りくる年のどの季節でも、そうであるとは限らないのである。
私は生存闘争という言葉を、広い意味で比喩的に使っている。ある生物が他の生物に依存することや、生き延びるだけでなく子孫を残すことも生存闘争に含まれるのだ。
たしかに、二頭の飢えた肉食獣が、食物を手に入れて生き延びるために闘うことも生存闘争だが、砂漠の縁に生えている植物の生存が水分に依存している状態も、生きるために乾燥に対して闘争していると言ってよい。
また、毎年一〇〇〇粒の種子を作るにもかかわらず、実をつけるまで育つのは、平均してその中の一粒だけという植物は、地上を覆っている同種あるいは別種の植物と生存闘争をしている、とたしかに言えるだろう。(中略)一方、ヤドリギの種子は鳥によって運ばれるため、ヤドリギが子孫を残していくためには、鳥に依存しなければならない。より多くの鳥を引き付けて果実を食べさせて、より多くの種子を運んでもらうために、ヤドリギは他の植物と生存闘争をしている、と比喩的に言うこともできる。(『種の起源』62-63頁)
私は大学を卒業したあと、すぐに大学院に進学したわけではなく、しばらく会社に勤めていた。
その会社では、社内報というものが配られていた。その社内報のコラム欄に、こんな意見が載っていたことがある。
優しい会社員の勘違い
「欧米の進化論は闘争を基本とする残酷な思想であり、日本の進化論は共生を基本とする平和な思想である。そこで、私たちは……」
このコラムを書いた会社員は、残酷ではなく平和な思想のもとに仕事をしていこうという考えだったようだ。じつにもっともな意見であり、私もこの会社員の結論には全面的に賛成する。ただし、この会社員は、少しだけ勘違いをしていたように私は思う。
闘争を基本とした残酷な欧米の進化論というのは、おそらくダーウィンの進化論を念頭に置いての発言だろう。そして、「残酷な」という部分は、「生存闘争」を指していると思われる。
たしかに、誰だって「闘争」なんてしたくない。仲良く平和に生きるのが一番だ。だから、生存闘争を基礎にしたダーウィンの進化論を嫌いになる気持ちもわかる。
しかし、進化にはどうして生存闘争が必要なのだろうか。生存闘争をしない進化というものはないのだろうか。
生存闘争は、すべての生物が高い増加率を持っていることによる必然的な結果である。本来、生物は一生のあいだにいくつも卵や種子を作るので、一生のある時期やある季節やある年に、かならず多くの個体が死ななくてはならない。そうでなければ、個体数は指数関数的に増加して、どんな土地でも収容できないくらい莫大な数に達してしまう。このように、生存可能な数以上の個体が生まれてくるため、同種の個体や、他種の個体や、周囲の物理的環境とのあいだで、かならず生存闘争が生じるのである。(『種の起源』63頁)
(本原稿は、『『種の起源』を読んだふりができる本』を抜粋、編集したものです)
更科功(さらしな・いさお)
1961年、東京都生まれ。東京大学教養学部基礎科学科卒業。民間企業を経て大学に戻り、東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。博士(理学)。専門は分子古生物学。武蔵野美術大学教授。『化石の分子生物学 生命進化の謎を解く』(講談社現代新書)で、第29回講談社科学出版賞を受賞。著書に、『爆発的進化論』(新潮新書)、『絶滅の人類史―なぜ「私たち」が生き延びたのか』(NHK出版新書)、『若い読者に贈る美しい生物学講義』(ダイヤモンド社)などがある。
不真面目な読者のためのまえがき――著者より
ずいぶん昔のことだが、私は『種の起源』について述べた、ある記事を読んだことがある。その記事には、こんなことが書いてあった。『種の起源』は、生物の世界から神を追放して、生物が進化することを実証した科学書である、と。それ以来、私は『種の起源』のことを、神を否定して生物が進化することについて述べた本だと思っていた。
それから私は大学院に入り、進化に関する研究をするようになった。しかし、大学院を修了するまで、私は『種の起源』を読んだことがなかった。ちなみに、私は何人かの進化の研究者に『種の起源』を読んだことがあるかどうかを尋ねたことがあるが、読んだことのある人はほとんどいなかった。
そうして私は、『種の起源』を読まずに長い年月を過ごしてきた。しかし、大学院を出てしばらくしたころ、なぜか『種の起源』を読みたくなって、かなりきちんと読んでみた。そして、『種の起源』を読了して本を閉じたとき、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。私はずっと、『種の起源』は、生物の世界から神を追放した本だと信じてきた。それなのに、なんと『種の起源』には、「神が生物を創った」と書かれていたのである。
最初、私は意味が分からなかった。『種の起源』は生物の世界から神を追放したはずなのに、どうして「神が生物を創った」なんて書いてあるのだろう。そのとき、突然、私は気づいた。私の目から大きな鱗が落ちた瞬間だった。
「そうか。きっと、あの記事を書いた人は、『種の起源』を読んでいなかったのだ。『種の起源』についての批評はたくさんある。それらを読めば、『種の起源』なんか読まなくても、もっともらしいことは書けるのだ」
それから私は、『種の起源』について書かれた記事を、気を付けて読むようになった。そして、かなりの数の記事が、『種の起源』についてとんちんかんなことを述べていることに気づいた。
どうやら、かなりの数の人が、『種の起源』をきちんと読まずに、『種の起源』についていろいろと述べているらしい。でも、それは、目くじらを立てるほどのことではないかもしれない。仕方のないことかもしれないのだ。
日本では『種の起源』の翻訳は文庫で簡単に手に入るし、実際よく売れているらしいが、たとえ買っても読み終える人はほとんどいないのではないだろうか。
読むべき本はたくさんある。しかし、人生は短い。だから、それらの本のすべてを、きちんと読む時間はないのである。そのため、場合によっては、読んでいない本について読んだふりをすることも必要だろう。
とはいえ、読んだふりをするのなら、実際には読んでいないことがバレない方がよい。それでは、本を読んでいないことがバレない、究極の「読んだふり」とは何だろうか。それは、「本を読んでいないにもかかわらず、本を読んだときと同じ記憶を頭の中に作ること」ではないだろうか。そして、それは、決して不可能なことではないと私は思う。
そこで、私は『種の起源』のロイヤル・ロードを作ることを目指した。ロイヤル・ロードは「王道」と訳されるが、「楽な道」とか「近道」とかいう意味だ。
だいたい『種の起源』を読む時間の10分の1ぐらいで、本書を読み終えることができるのではないかと思う。解説もかなり加えたので、本書の分量は『種の起源』の10分の1よりは多いけれど、読みやすく書いたつもりなので、『種の起源』よりずっと速く読めるはずだ。10分の1の時間で、『種の起源』を読んだときと同じ記憶が頭の中にできるなら、これはまさに王道だろう。
本書を読み終えれば、あなたは周囲の人と、『種の起源』について、いろいろな会話ができるようになる。『種の起源』を読んでいないにもかかわらず、あたかも『種の起源』を読んだことがあるかのように、流暢に話をすることができるだろう。相手の言ったことに補足を加えることだって、できるかもしれない。「ああ、たしかに『種の起源』にはそう書いてあるけれど、現在では、そういう理論は使われていないよね」なんて偉そうに言えるかもしれない。
そんなふうにしていれば、あなたが『種の起源』を読んでいないことがバレることはないだろう。そして、本書を読んだ人が、みんな『種の起源』を読んだふりをして、そしてバレる人が一人もいなければ……それこそ著者冥利に尽きるというものである。
■新刊書籍のご案内
『種の起源』を読んだふりができる本』
更科功 著
☆絶賛の声が続々!☆
長谷川眞理子氏(人類学者)
「ダーウィンの慧眼も限界もよくわかる、出色の『種の起源』解説本。これさえ読めば、100年以上も前の古典自体を読む必要はないかも」
吉川浩満氏(『理不尽な進化』著者)
「読んだふりができるだけではありません。実物に挑戦しないではいられなくなります。真面目な読者も必読の驚異の一冊」
中江有里氏(俳優)
「不真面目なタイトルに油断してはいけません。『種の起源』をかみ砕いてくれる、めちゃ優秀な家庭教師みたいな本です」