言わずと知れた天下人・豊臣秀吉。その裏で活躍したのが秀吉の実弟である秀長。農民出身の豊臣兄弟が“血の絆”で戦国乱世を駆け抜け、いかにして立身出世を遂げたのか。新刊『450年前にタイム・スリップ! 豊臣兄弟と天下統一の舞台裏』(青春出版社刊)から、2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長の激動の人生を紹介します。

羽柴秀吉VS柴田勝家 賤ヶ岳の戦い

 1582年の後半、秀吉に反対する勢力は、柴田勝家を中心にまとまっていきます。織田信長の三男・信孝、信長の家臣だった伊勢の滝川一益らが柴田と結び、秀吉と対立を深めたのです。

本能寺の変…そのとき豊臣秀吉・秀長はどう動いたか【2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」】2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」で主人公の豊臣秀長を演じる俳優の仲野太賀さん Photo:JIJI

 それに対して、11月、秀吉が仕掛けます。北陸を根城とする柴田勝家が雪で動けなくなるのを待って、近江長浜城にあった勝家の養子である勝豊を寝返らせ、さらには織田信孝の岐阜城を包囲したのです。そのさい、信孝は一度、屈伏します。秀吉は翌1583年2月には、伊勢の滝川一益軍を攻めます。

 柴田勝家の軍が動いたのは、寒さが緩み、雪が溶けはじめた翌3月になってからのことでした。そのとき、秀吉は、北近江の木之本に砦や柵を築き、待ち構えていました。

 柴田軍2万数千は北近江まで進出し、木之本の羽柴軍と対峙します。秀吉方は7万といわれますが、互いに手を出すことができず、約1カ月にわたって膠着状態が続きました。

 秀吉方が動けなかったのは、後方の美濃の織田信孝がどう動くか、わからなかったからです。織田信孝が再び挙兵すれば、秀吉方は挟み撃ちにされます。秀吉の想定どおり、信孝が兵を挙げ、岐阜城を攻めはじめたという情報が届きます。秀吉は自ら2万の軍を率いて、岐阜城救援に向かいます。