2025年は昭和100年であるとともに、戦後80年でもある。書生論かもしれないが、勝てないとわかっていて、なぜ戦争を始めてしまったのか、なぜ続けてしまったのかについて、問い直してみたい。
そこで、日本軍を組織論の視点から分析・検証した『失敗の本質』(ダイヤモンド社)の執筆者の一人、戸部良一氏に講義をお願いした。戸部氏は、太平洋戦争に関する書籍を、共著書を含めると20冊近く書かれている。
戸部氏のお話は、思い込みや誤って刷り込まれた知識に気づかせてくれるだけでなく、現代組織に多く共通する組織の悪弊、たとえば損失を回避しようと合理的な行動から逸脱してしまうという「プロスペクト理論」の問題をはじめ、すでに下してしまった(投資してしまった)判断ミスを改めることを嫌がる「サンクコスト効果」(別名コンコルド効果)、止めるべきであるという情報と止められないという気持ちが矛盾し、葛藤を感じる「認知的不協和」などは当時の軍組織にも存在しており、こうした認知バイアスが時に決定的ダメージをもたらす可能性があることを教えてくれる。
こうした人間の組織固有の問題に対処するには、やはり最善と現実のバランスを見極めながらたえずベターを追求する「賢慮のリーダー」の存在が不可欠といえる。
太平洋戦争の始まりは
真珠湾攻撃ではない
編集部(以下青文字):まず、太平洋戦争の始まりについて理解をそろえておきたいと思います。開戦は真珠湾攻撃と刷り込まれている人もいますが、それ以前の日中戦争を含めて考えるのが一般的のようです。
戸部(以下略):はい。昭和期の戦争を考える際、満洲事変、支那事変(日中戦争)、大東亜戦争(太平洋戦争)という3つの戦争があります。それぞれの関連性については、研究者の間でも見解が分かれています。
防衛大学校 名誉教授 | 国際日本文化研究センター 名誉教授戸部良一
RYOICHI TOBE防衛大学校名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。1976年、京都大学大学院法学研究科/政治学専攻博士課程単位取得退学。法学博士。1990年に防衛大学校教授、2009年に国際日本文化研究センター教授、2014年に帝京大学教授。主な著書に、『ピース・フィーラー』(論創社、1991年、ちくま学芸文庫、2024年)、『逆説の軍隊』(中央公論社、1998年、中公文庫、2012年)、『日本陸軍と中国』(講談社選書メチエ、1999年、ちくま学芸文庫、2016年)、『外務省革新派』(中公新書、2010年)、『自壊の病理』(日本経済新聞出版、2017年)、『昭和の指導者』(中央公論新社、2019年)、『戦争のなかの日本』(千倉書房、2020年)、『日中和平工作: 1937-1941』(吉川弘文館、2024年)が、主な訳書にウォルト・ロストウ『政治と成長の諸段階』〈上・下〉 (ダイヤモンド社、1975年)が、また主な共編著に、『失敗の本質』(ダイヤモンド社、1984年、中公文庫、1991年)、『戦略の本質』(日本経済新聞出版、2005年、日経ビジネス人文庫、2008年)、『日中戦争の軍事的展開』(慶應義塾大学出版会、2006年)、『国家経営の本質』(日本経済新聞出版、2014年、日経ビジネス人文庫『国家戦略の本質』、2020年)、『近代日本のリーダーシップ』(千倉書房、2014年)、『〈日中戦争〉とは何だったのか』(ミネルヴァ書房、2017年)、『決定版 日中戦争』(新潮新書、2018年)、『知略の本質』(日本経済新聞出版、2019年)、『決定版 大東亜戦争(上・下)』(新潮新書、2021年)、『日本の戦争はいかに始まったか』(新潮社、2023年)などがある。
中国では近年、満洲事変の1931年9月から抗日戦争が始まったとして14年抗戦と呼んでいますし、日本でも3つの戦争を一連なりに考える15年戦争と言う人たちもいます。
しかし私は、3つの戦争に一貫した連続性があったとは思えません。満洲事変が起こったからといって支那事変が避けられなかったとは考えにくいです。また、支那事変が長引いたから大東亜戦争に突入したというような歴史の必然論にはくみしません。時系列としては順々に起こっていますが、その時々の日本の政治指導者が判断を見誤った結果、連続しているように見えるにすぎない、というのが実際ではないでしょうか。
判断の誤りとしては、たとえば、近衛文麿は支那事変を拡大させたことで知られています。東條英機による開戦決定も判断ミスです。それぞれの時点でより慎重な判断、より賢明な政治的選択が下されていれば、流れを変えることは十分可能だったと考えます。
これら3つの戦争は始まり方がそもそも異なるのです。満洲事変は、石原莞爾、板垣征四郎という関東軍の参謀たちの謀略によって始まりました。また、支那事変のきっかけは盧溝橋事件ですが、実は始まった原因はいまだはっきりしていません。おそらく偶発的な衝突がきっかけだったと推測されますが、その後は日本側も中国側も後に引かず、エスカレートして本格的な戦争に発展してしまいました。
一方、大東亜戦争は、満洲事変や支那事変とは異なり、日本の国家が正式の開戦決意と開戦決定によって始めた戦争です。このような違いこそが、それぞれが歴史的必然でも不可避でもなかったことのまさに証左であると思います。
この観点から、太平洋戦争の始まりをいま一度考えてみるのが最も妥当な判断ではないでしょうか。
太平洋戦争の相手はアメリカです。参戦に反対する声も少なくなかったにもかかわらず、なぜ開戦に踏み切ったのでしょうか。
難しい問いですね。当時の政府首脳や軍部の誰一人として「アメリカに勝てる」と信じていたわけではありません。にもかかわらず、戦争が始まってしまった。ですから、多くの研究者は「なぜ始めたのか」をいまなお問い続けていますが、決定的な答えは見つかっていません。
この問題について、まず、一つ正しておきたいことがあります。今年2025年の終戦記念日の翌日と翌々日に放映されたNHKのドラマ『シミュレーション 昭和16年夏の敗戦』で、総力戦研究所が採り上げられ、若手エリートが「アメリカには勝てない」と結論する姿が描かれていましたが、総力戦研究所は政策決定機関ではなく、あくまで教育機関なのです。
イギリスの王立国防大学に倣い、若くて優れた人たちを集めて、軍人は経済や思想や政治を、経済人や研究者、政治家は軍事や安全保障を勉強し、課題を設定して、それに対するソリューションを議論するという、いまで言うアクティブラーニングを行う教育機関だったのです。研究成果が政府や軍の意思決定を左右したわけではありません。
ただし「勝てない」という分析はすでに広く知られていました。たとえば陸軍の秘密調査機関「東亜経済調査局」、通称秋丸機関などでも同様の結論が出され、経済学者たちも論文や講演で日米の国力差を指摘していました。当時の政策決定に関わった人の中でアメリカに勝利できると考えた人は一人もいなかった。にもかかわらず、戦争を始めてしまったわけです。ちなみに、慶應義塾大学の牧野邦昭氏がプロスペクト理論の言う損失回避の原則を援用し、日本の開戦を説明する仮説を出しています。いずれにしても、いかなるデータを参照しても、日本が勝てないことや長期戦になることは明白でした。
実を言うと、1941年11月段階で、日本はあるグランドデザインを想定していました。まず東南アジアの資源地帯を押さえ、戦略的な要点を確保し、特にイギリスやオランダ、アメリカからその戦略的拠点を奪って、日本との主要交通線を確保する。そこで、完全勝利は難しいものの簡単には敗北しないことを旨とする「長期不敗体制」を築き、その間に重慶の蒋介石政権を屈服させ、同盟国のドイツ、イタリアと協力してイギリスを屈服させ、アメリカの戦意喪失につなげるというものです。
もしかするとドイツがイギリスを撃破し、ソ連を撃滅できるかもしれない。日本は蒋介石政権を倒し、インドもイギリスから独立するだろう。そうなればアメリカは戦う気力をなくすだろうという希望的観測に賭けてしまったのです。
![[検証]戦後80年勝てない戦争をなぜ止められなかったのか](https://dol.ismcdn.jp/mwimgs/7/b/600/img_7bec3ebe30163a8001d8eb9545b75026635017.jpg)







