最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き残るのでもない。唯一、生き残るのは変化に適応できる者である──。この「適者生存の法則」は、進化論を提唱したイギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィンが、著書『種の起源』の中で記した言葉として世界中で知られている。
しかしながら、実は『種の起源』の原書初版には「適者生存」という言葉はいっさい出てきていないという。その言葉が初めて登場したのは、『種の起源』の出版から5年後の1864年、イギリスの哲学者ハーバート・スペンサーの著書『生物学原理』で、ダーウィンの「自然選択説」を説明するために用いられたとされる。自然選択説と概念が異なると考え、当初はこの言葉を無視していたダーウィンだったが、共同研究者であるアルフレッド・ラッセル・ウォレスの助言もあり、『種の起源』の第5版で適者生存という言葉を使うことになった。紙幅の都合でこれらの詳しい経緯やその後の顛末は説明できないが、興味のある方は、千葉聡氏の著書『ダーウィンの呪い』(講談社現代新書、2023年)をぜひ参照されたい。
ちなみに現代の生物学では、いくつかの重大な誤解をもたらすことから適者生存という言葉はほとんど使われなくなり、自然淘汰という言葉が用いられている。だが、どちらにしろ言えるのは、「生き残る生物は、その集団の中に新たな環境に適応できる異端を抱えている」ということだ。言い換えれば、「多様性が集団の繁栄を支えている」のである。
この「多様性」という言葉だが、近年ではすっかり企業における組織づくりのキーワードにもなった。「多様性がイノベーションの源泉である」とまでいわれているが、では実のところ、多様性を独自の強みに換える組織をデザインできるリーダーはどれほどいるだろうか。
そこで今回インタビューをお願いしたのが、ソニーコンピュータサイエンス研究所(ソニーCSL)の社長・北野宏明氏だ。最先端のAI研究を国際的に長年牽引してきた第一人者であるとともに、AIやシステム科学と生命科学を統合する「システムバイオロジー」という新たな分野を切り拓いた生物学者でもある。その活動の幅はソニーグループの枠を超え、さまざまな組織やメンバーと連携して、難易度の高いプロジェクトや事業を数々立ち上げている。
まさに百戦錬磨といえる北野氏だが、その手腕の一つが、「世界のトップタレントを引き寄せるR&D組織のデザイン力」である。基礎研究・技術開発・イノベーションを混同および一くくりにして組織設計をする企業が多い中で、ミッションに合わせた組織をつくり上げる稀有な経営者である。本稿では6ページにわたって、北野流・異能集団の多様性マネジメントについてお届けする。
ロバストネスに
不可欠な多様性
編集部(以下青文字):北野さんは、AIと生命システムに関連性を見出し、みずから「システムバイオロジー」という新たな研究分野を提唱されました。この研究を通じて、生命システムが持つ「ロバストネス」(しなやかな強さ)という概念に着目されています。
突き詰めれば、いま多くの国や企業が取り組むあらゆるグローバルアジェンダや経営アジェンダは、「ロバストネスをどう手に入れるか」という問いに帰着するように思います。そこで、ロバストネスとはいったい何なのか、その本質と重要性についてお聞かせください。
北野(以下略):私は1988年に、AIの研究のため、アメリカのカーネギーメロン大学に留学しました。大規模なAIシステムを超並列計算機の上で構築する研究に従事していたのですが、当時のAIは、人間が書き出した知識ベース、推論ルールやロジックを中心にしていたがために、現実世界と開発者によって記述された知識による世界モデルが不可避的に乖離する問題を抱えていました。
この問題を解決するために私が取ったアプローチが、大規模データと大規模計算を前提としたAIシステムの開発です。人間の解釈による知識表現やルールを使うのではなく、世の中の現象に関するデータをそのまま使って推論するというアプローチです。いまでは大規模データで大規模計算をすることがAIの世界では当たり前になっていますが、当時は推論ルールやロジックなど知識工学的手法が主流の時代でしたので異端的なアプローチだったものの、結局はThe Computers and Thought Awardの受賞(1993年)につながっていますし、現在の大規模化したAIパラダイムの源流の一つかもしれません。
ソニーグループ チーフ・テクノロジー・フェロー
代表取締役社長
北野宏明
HIROAKI KITANO
1961年埼玉県生まれ。1984年国際基督教大学教養学部理学科(物理学専攻)卒業。1991年京都大学博士号(工学)取得。1993年ソニーコンピュータサイエンス研究所(ソニーCSL)に入社し、2011年から代表取締役社長。2022年4月から2025年3月までソニーグループのCTOを務めたのち、2025年4月からはCTF(チーフ・テクノロジー・フェロー)として、引き続きグループ全体の技術戦略を統括。自身の研究領域においては、カーネギーメロン大学にて大規模データ駆動型AIシステムを超並列計算モデルで構築する研究に取り組み、国際人工知能学会のThe Computers and Thought Awardを受賞。その後、ソニーCSLおよびカリフォルニア工科大学での研究を通じて、生物学とシステム科学を統合したシステムバイオロジーの新分野を確立。また、AIの専門家として、国連のHigh-level Advisory Body on AI for Secretary GeneralのWorking Group Chairを務めるとともに、経済協力開発機構(OECD)の Expert Group on AI FuturesやWorld Economic ForumのGlobal Future Council on Artificial General Intelligence、さらには日本政府のAI戦略会議の構成員。沖縄科学技術大学院大学で教授も務めている。RoboCup創設者。La Biennale di Venezia 2000やニューヨーク近代美術館(MoMA NY)で開催されたWork Sphere Exhibition (2001)などでInvited Artist, Prix Ars Electronica(2000)ではSpecial Awardを受賞している。
同時に、AI研究はいまそこにある知能の研究であり、知能は進化の副産物であることから、生命自体を理解する必要があると考えて生命科学の研究にも取りかかりました。最初に取り組んだのは、老化の研究です。まずは、細胞レベルでの老化プロセスの背後にあるメカニズムの理解を目指しました。さらに全体を俯瞰すると、老化プロセスとは個体のロバストネスの崩壊であるとわかりました。
生物は、温度や湿度、栄養状態などの外部環境が変動しても、生存に必要な機能を維持し、全体のシステムが簡単に破綻することはありません。しかし、老化によってシステムの制御能力が低下すると、最後は連鎖破綻につながります。これらも含めてまさに優れた仕組みなのですが、ならば生命を「動的な大規模複雑系共生システム」ととらえることで、ロバストネスを設計原理としたシステムでの多様な現象としての老化や疾病の理解と制御方法、つまり治療法の発見につなげられないかと考えました。一般に「複雑系」の研究では、単純な要素の相互作用から興味深い現象が創発するとされていますが、実際の生物では、要素自体が複雑で極めて多様です。よって、従来の複雑系研究とも違う理論的枠組みを考える必要がありました。
ちなみに分子生物学は生命現象を分子レベルで解明する学問であり、生命の設計図となる遺伝情報を記録したDNAを解析するゲノム研究などが挙げられます。膨大なゲノム情報をコンピュータ解析し、いろいろな実験をすることで、生命システムのメカニズムが分子レベルで明らかになってきました。しかしながら、分子は生命を支える「部品」にすぎません。重要なのは、その部品たちがどのような原理で相互作用し、多様な生命現象を紡いでいるかです。生命を動的システムとしてとらえ、その背後にある設計原理を解き明かさないことには、生命現象を本質的に理解することはできない。そう考えた結果、「システムバイオロジー」という分野を提唱し、探究することになりました。
新しい学問分野を確立するには、単なる「手法」ではなく、それを支える基本的な「理論」が不可欠です。素粒子物理学で言えば、相対性理論や量子論のようなものです。従前の生物学にもセントラルドグマ(遺伝情報の伝達の仕組み)や進化論といった枠組みはありましたが、システムバイオロジーにおける基本的理論とは何かと考えた時、行き着いたのが「ロバストネス」でした。当時、カリフォルニア工科大学で、システム制御工学を専門とするControl & Dynamical SystemsとDivision of Biologyで研究をしていたことも大きかったです。
ロバストネスとは、生命システムが内外から何らかの揺さぶりを受けても、生存機能を保ち続けようとする力を指します。一見するとホメオスタシス(恒常性)に似ていますが、実際は異なります。ホメオスタシスはいろいろな擾乱に対する状態の維持を指す一方で、ロバストネスは「擾乱に対していかに機能を維持するか」という視点で生命システムをとらえるからです。システムとして不安定に見えるものが、結果的に全体としての機能が守られる。そうした矛盾する状態も含めて、ロバストネスだと考えます。
いくつか例を挙げましょう。まずは、「がん」です。がん細胞は多くの場合、DNAのコピー機能に問題を抱えた状態で増殖を続けるため壊れかけたシステムに思えますが、ロバストネスの観点からはむしろ生存戦略の極致であるといえます。がん細胞はゲノムの変化が速く、遺伝的多様性があり、さらに変異を続けていく状態だからこそ、治療が効く細胞と効かない細胞が混在する。95%のがん細胞を排除できても5%が残っていれば、その細胞が増殖して治療抵抗性のある細胞が中心になってしまいます。これが、がんという疾病の治療に対するロバストネスであり、治療抵抗性のメカニズムの一つです。
もう一つ、俗に地球最強生物とも称される「クマムシ」も紹介しましょう。クマムシは5億年前のカンブリア紀から存在していた体長1ミリ前後の微小な緩歩動物です。極度の乾燥環境になると、乾眠と呼ばれる代謝ほぼゼロの仮死状態に入ります。これで何年も生き延びるうえに、水をかければ10~20分ほどで代謝活動を再開することができる。乾燥状態で代謝がほぼゼロになる時には、代謝のホメオスタシスから離脱し、水分を得た後に復帰します。個体のロバストネスをホメオスタシスからの離脱も含めた方法で達成するという生命システム維持の観点で、非常に巧妙な方法だと思います。
がん細胞とクマムシ、これらの生命システムからいえるのは、ロバストネスとは単一の安定状態の維持ではなく、多様な状態を内包しながら生存機能を保ち続けることなのです。
北野さんは、サイエンスライターの竹内薫氏との共著『したたかな生命』(ダイヤモンド社、2007年)の中で、「ロバストネスとフラジリティはあらゆるシステムで表裏の関係にあり、トレードオフは避けられない。むしろ、このトレードオフを受け入れて、進化可能なシステムや組織が生き残る」と述べています。
矛盾するものや異質なものとの共存・共生は、突き詰めれば「多様性」だといえますが、これがロバストな組織づくりにおいて非常に有効だとお考えですか。
ある擾乱に対してロバストネスを上げていくと、想定外の擾乱に対して非常に脆弱になることがよくあります。すべてのシステムにはこうしたトレードオフが常にあるということを、まずは認識しなければなりません。
そのうえで、どうすればロバストな組織をつくり上げることができるのか。たとえば、生物の進化について考えてみましょう。ダーウィンの進化論で知られるように、「環境の変化に適応できる個体」が有利といわれることが多いのですが、本当のところは「多様性がある集団」のほうが有利だといえます。環境が激変した時、個体がその変化に合わせて適応する時間はほとんどありません。けれども、集団の中に、現在の環境には不適合だけど、新たな環境にはすでに適合している異端がいたとしたらどうでしょう。現在の環境における効率化という点だけで見ると排除したいと思われるかもしれませんが、環境が大きく変化した際には、その異端と思われていた者たちが大活躍するかもしれません。そうなると、その集団の生存確率は上がりますよね。すなわち、集団の繁栄は「多様性」に支えられています。
つまりは、均質であることではなく多様性を受け入れること、異端を排除するのではなく異端を抱え込むことです。才能の多様性を前提とするならば、「異端」というラベル付け自体が無意味だといえます。多様性は強さの源泉であり、創造性の源泉です。そうした理念のある組織こそがロバストゆえに生き残り、繁栄するのではないでしょうか。
そう考えると、多くの日本企業が最も苦手としているのが、この多様性かもしれません。すべての組織には必ずどこかにトレードオフがあり、どんなに強靭な組織をつくり上げたと思ったとしても、それは一定の前提に対しての最適化であり、外部環境などが変わってしまえば脆弱性が露呈することがあります。だからこそ異質なものとの共存・共生、すなわち多様性が、ロバストで進化可能な組織であるためにも重要であり、そのうえで多様性豊かなチームを率いるリーダーシップが必要です。
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