「砂の器」を「読売新聞・夕刊」に連載しながら、「日本の黒い霧」を「文藝春秋」に、「球形の荒野」を「オール讀物」に、「わるいやつら」を「週刊新潮」に、「考える葉」(1960~61年)を「週刊読売」に、「異変街道」(1960~61年)を「週刊現代」に連載している。この間に「駅路」や「誤差」など短編の代表作も発表している。

 それでも橋本の脚本が、清張の『砂の器』が持つ可能性を引き出し、大ヒット作に仕上げたことは間違いない。

 脚本の執筆を断ろうとしていた橋本を引きとめたのは、一緒に奥出雲の取材に同行していた助監督の山田洋次だった。「これはやらなきゃいけませんよ。そのためにこうして山陰へ来てるんじゃないですか」(『鬼の筆』)と橋本を説得した。

『砂の器』を映画化するために
退路を絶ってプロダクション設立

 山田が「珍しく強気」(「清張映画の真髄」)に勧めたため、橋本は「それじゃ洋ちゃん。この小説の他のところはいらん。父子の旅だけで映画一本作ろうや」(『鬼の筆』)と提案する。

「不幸な親子が故郷から北陸路に出て、海岸伝いに山陰路に入ったのか、一度は京都や大阪に出てから、岡山か広島を通って山陰路に出たのか――清張さんは小説に、それはこの親子以外には分からないと書いている。この親子の旅で一本作ればいいんじゃないか」(「清張映画の真髄」)と、原作を超えたシナリオ案を思いつく。

 清張が記した『砂の器』には、遍路姿で父子が流浪する場面はわずかしか描かれていない。しかし上述のように、奥出雲を主要な舞台にした作品の設定や方言のトリックなどに、清張と父・峯太郎の物語が織り込まれている。

 橋本忍はかつての師匠・伊丹万作の教えを参考に、「原作者が書こうとして書けなかったその先を脚本として書く」(同前)ことを意識していた。

「『砂の器』は清張さんの人生からいっても、本当に書きたかったのは親子の旅であって、過去を封じるために恩人殺しをするのが必ずしも目的ではなかったはずだと思った。だからこそ、清張さんにも『僕の書いたもので映画になったものは多いけど、間違いなくいちばんいいのは『砂の器』だ』と堂々と言ってもらえた」(同前)と振り返っている。