ただハンセン病の父とその息子が、差別を受けながら流浪する物語は、映画の企画を通すのに苦労する。新聞連載から間もなく、1961(昭和36)年の春に野村芳太郎は撮影を始めるが、松竹の上層部の指示で、製作は中止となってしまう。
橋本は、松竹だけではなく、東宝や東映や大映にも脚本を持ち込むが、付き合いで話は聞いてもらえるものの、最終的な了解を得られない。今井正監督にも「あれはな、やめといたほうがいいよ。客来ないよ。これはもうどこへもほかへ持って回らんほうがいいよ。あんたの評判傷つけるだけだよ」(『鬼の筆』)と言われてしまう。
しかし橋本は「当たるという確信」を持ち、1973(昭和48)年に自らプロダクションを立ち上げ、松竹との共同製作で、野村芳太郎監督で撮影に入り、1974(昭和49)年に映画「砂の器」を完成させるのである。
1年の歳月をかけた撮影は
天気にまでこだわった
松竹の出資が決まると、橋本は独立プロダクションの機動力を生かして、少人数のスタッフで撮影に挑んだ。満足のいく天気にならないとカメラを回さず、「最高の条件を狙って父子の旅」を撮影した。
「厳冬の津軽海峡は竜飛岬に始まり、春の信州、新緑の北関東、盛夏の山陰、紅葉の阿寒。撮影隊は1年をかけて日本列島を縦断、その四季の絶景を旅する父子とともに撮っていった」(『鬼の筆』)
映画「砂の器」の魅力が、橋本忍が撮影の指揮を執り、編集も手掛けた「日本海側の四季折々の風景の中を父子が行脚するシーン」にあることは間違いない。映画「砂の器」といえば、この場面である。
橋本忍が「砂の器」の映画化にかけた努力は、作中の父子の行脚に似ていた。彼も清張のように高等小学校卒の経歴で奉公に出た経験があり、兵卒として赤紙を受け取り、粟粒結核にかかり、死を覚悟したことがあった。
小説『砂の器』の刊行から13年後に公開された映画「砂の器」は、苦労の甲斐あって、興行的に大成功を収める。毎日映画コンクール大賞、モスクワ国際映画祭審査員特別賞など、次々と映画賞を獲得していく。清張の収入もこの作品の大ヒットで急上昇することになる。







