スイートルームは、まさにこの理論の典型的な構造体といえます。最も高価で、最も目立つ部屋――。

 ところが、現代の富裕層は、この理論をひっくり返しつつあります。

 公共政策研究者のエリザベス・カーリッド・ハルケットは、2017年の研究『The Sum of Small Things』の中で、現在のアスピレーショナルクラス(エリート層)においては顕示的消費が減少し、教育、健康、文化的体験などの「目立たない消費(inconspicuous consumption)」の支出にシフトしていることを、実証データで示しました。

 派手な消費は、もはや本物の富の証ではない――むしろ、地位を「演じる必要がある」立場の信号として読まれてしまう。本物の富裕層は、ロゴの見えない服、目立たない車、ラベルのないワイン、そしてスイートではない部屋を選ぶ。見える贅沢から、静かに退いていくのです。

本物の富裕層の宿選びが
教えてくれる「たった1つのこと」

「一番高いものを選ぶ」「一番大きいものを選ぶ」「一番目立つものを選ぶ」――そうした選び方は、地位を「演じる」段階の選び方です。「本物の価値は目立たないところに宿る」ということを、富裕層の宿選びは静かに教えてくれます。

 これは、ふだんのビジネスにも、そのまま当てはまります。

 例えば、出張先のホテル選び。役職が上がったからと、自分の地位を周囲に示すように、高級なラグジュアリーホテルに泊まる――そういう選び方をする方は少なくありません。

 けれど、自分にとって本当に休まる場所はどこかと考えてみると、実はこぢんまりとしたビジネスホテルの一室のほうがずっと気が休まる、という方も多いのではないでしょうか。

 新幹線も同じです。役職に見合うからとグリーン車を選ぶよりも、自由席の車両に乗って、人の少ない一画にゆったり腰を下ろすほうが、ずっと落ち着けるという方もいらっしゃるはずです。

 地位の頂点に近づけば近づくほど、人は「ここから落ちてしまうのではないか」という不安に支配されやすくなります。

 けれど、その不安に流されて高いものを選び続けるよりも、自分にとって本当に心地よい場所、価値があると感じるものを、静かに大切にしていく――本物の富裕層の宿選びが私たちに教えてくれるのは、結局のところ、その一点なのではないかと思います。