【大人の教養】地図で見ると怖い、「ホルムズ海峡の悲劇」とは?
古代から中東とインドを結ぶ要衝だったホルムズ海峡。そこに浮かぶホルムズ島は、かつて帝国が奪い合うほどの国際商業の中心だった。だが、ポルトガルの占領、サファヴィー朝とイングランドの攻勢、そして対岸に築かれた新港によって、その栄華は静かに失われていく。地図で見ると怖い、海峡の歴史を変えた島の末路とは?

【大人の教養】地図で見ると怖い、「ホルムズ海峡の悲劇」とは?Photo: Adobe Stock

ホルムズ海峡の歴史をひも解く

 ホルムズ海峡は古代から中東とインドを結ぶ重要な海上交通路であり、シュメール人の記録にもバーレーンとされるディルムンやインダス文明を指すメルッハが登場します。ディルムン衰退後も、ゲラやラフム朝、イスラーム勢力下のムスリム商人が交易を担い、バスラは港湾都市として発展しましたが、反乱やモンゴル、ティムールの侵攻で荒廃しました。

 その後、海峡の要衝にあるホルムズ島が注目され、11世紀以降、オマーン系移住者によるホルムズ王国の中心となります。王国はイル・ハン国の影響下で自立し、13世紀にはペルシア湾両岸やアラビア海沿岸へ支配を広げ、国際商業の中心として繁栄しました。

 しかし16世紀初頭、アジア進出を進めるポルトガルがムスリム商人の交易網に割り込む拠点としてホルムズ島を狙い、1507年に占領します。一度は撤退したものの、1515年に再占領し、要塞を築いてオマーン海岸の諸都市も征服しました。だが17世紀、サファヴィー朝のアッバース1世は軍制改革を進め、イングランドと同盟します。1622年、サファヴィー朝・イングランド合同軍は10週間の包囲の末、ポルトガル支配下のホルムズ島を陥落させました。

ホルムズ島の没落が始まる

 ホルムズ島の占拠に成功したアッバース1世は、島の対岸に港湾都市バンダレ・アッバース(「アッバースの港」の意)を築きます。この都市はサファヴィー朝の主要貿易港となり、現在もイランにおいて同様の地位を維持しています。下図を見てください。

【大人の教養】地図で見ると怖い、「ホルムズ海峡の悲劇」とは?出典:地図で学ぶ「深読み」世界史

 一方で、バンダレ・アッバースはホルムズ島の地位に取って代わることとなり、ホルムズ島は歴史の表舞台から姿を消すことになります。1800年頃にはブーサイード朝オマーン帝国の支配下に置かれますが、まもなく新しい支配者に交代します。それが、イギリスです。

欧米諸国の到来……そしてホルムズ海峡の悲劇とは?

 欧米諸国の到来は、ペルシア湾とホルムズ海峡の在り方に変化を生じさせました。大航海時代から帝国主義時代にかけて、欧米諸国が世界規模の商業航路を構築したことで、インド洋の海上交易路としての地位は相対的に低下します。

 ペルシア湾は17世紀より海賊行為が目立ったことから、今日のアラブ首長国連邦の沿岸部一帯は、欧米より「海賊海岸」と呼ばれるようになります。17世紀の海賊はヨーロッパ人によるものが大多数でしたが、最大の勢力はアラブ人によるものでした。海賊活動の活発化は、ホルムズ王国やサファヴィー朝の衰退によりこの海域を制する勢力が不在であったこと、ペルシア湾における商業活動が停滞(海賊行為は商業活動における非常手段=略奪という側面もあります)したことから説明することができます。

 この海賊海岸は、インドへの安全航路の確保を目的とする1819年にイギリスによる討伐遠征を受け、ペルシア湾に面したアラブ諸国はイギリスの支配下に置かれます。極めつけは1869年にスエズ運河が開通したことで、これにより紅海と地中海が直接海運で結びつけられ、ペルシア湾とホルムズ海峡の地位は、一時的に失墜することとなるのです。

(本原稿は『地図で学ぶ「深読み」世界史』を一部抜粋したものです)