「小さく試してみたが、何も変わらなかった」。改革案でも学び直しでも、私たちはたいていそう言って始め、たいていそこで終わる。ピーター・F・ドラッカーは、57年前の著作『断絶の時代』で、低い目標こそ最も割に合わない選択だと、精神論ではなく引き算で示していた。払う手間もリスクも大きな目標と変わらず、返ってくる成果だけが小さいからだ。慎重さがなぜ空回りするのか、その計算を追ってみよう。本連載では、膨大なドラッカーの著作を読み返し、その中から令和の現在に役立つ知を取り出して紹介していく。(構成:ダイヤモンド社書籍編集局)

誰も疑わない「まずは小さく」
「小さく試してみよう」――そう決めて始めた取り組みが、いつのまにか消えていた経験はないだろうか。
職場では、改革案をまずひとつの部署で試す。学び直すなら、まず入門書から。家計の見直しは、すぐ削れるところから。
これは特定の職業の作法ではない。勤める人も、学ぶ人も、家計を預かる人も、独立して働く人も同じだ。確実に手が届く範囲に目標を置く、という選び方をしている。
堅実で、慎重で、失敗しにくい。この選び方は、誰も反論しない種類の正しさを備えている。だから、ほとんど疑われない。
ただ、これは本当に安全な選び方なのだろうか。
この問いを正面から扱った本がある。57年前に刊行された、『断絶の時代』だ。
著者のドラッカーは、この作法にはっきり反論している。ただしそれは、精神論ではなかった。
ドラッカーの意外な計算
本書の第3章で、ドラッカーはイノベーションのための組織がやってはならないことを書いている。
イノベーションのための組織が行ってはならないことは、目標を低く設定することである。まったく新しいことを行うのも、すでに行っていることを改善するのも同じ手間である。
――『断絶の時代』より
小さな改善でも、稟議は通す。関係部署に説明する。承認をもらい、報告を書く。その枚数と回数は、新規事業とほとんど変わらない。
これは職場に限らない。学び直しでも家計でも、段取りの量は狙う成果の大きさに比例しない。
そのうえで、もう一つの指摘が続く。
必要とされるエネルギーが期待される成果に比して大きすぎる。しかもそのリスクは新事業、新産業を生み出すのと変わらない。
――『断絶の時代』より
リスクまで同じなのだ。前提が静かに反転する。
投じる手間もエネルギーもリスクも同じで、返ってくる成果だけが小さいなら、それは安全策ではなく、ただの非効率である。
ただし、ここで混同してはいけない。ドラッカーが問題にしたのは着手の大きさではなく、目標の高さである。
試しにひとつの部署で始める、1日5分から動かす。その入り方は理にかなっている。低い目標をそのまま終点にすることが、割に合わないのだ。
目標を高く置けた人の違い
では、目標を高く置けた人は、何が違ったのか。本書はその答えを、科学の世界から引いている。
本書は、一流の科学者と並みの科学者を分けるものは才能ではなく、知識でも努力でもないと述べる。分けたのは、自らの知識と知能とエネルギーを本当に価値のあるものに集中したかどうかだった。
ドラッカーは毎年ノーベル賞受賞者の記念スピーチを読むと述べ、受賞理由となった業績が「世の中を変える研究をやれ」という恩師の一言から生まれたと語る受賞者が多いことに触れている。
差がついたのは、才能の量ではない。エネルギーをどこに置いたかである。
臆病だから低く置いたのではない。どこに力を向けるかを決めずに始めたから、低いところに落ち着いたのではないだろうか。
二つのゲームを取り違える
第3章は、要点を1行に畳んで終わる。
これは既存の事業において長期計画や資源配分を検討する際の問題意識とは異なる。後者はリスクを最小にしようとし、前者は成果を最大にしようとする。
――『断絶の時代』より
「後者」は既存事業の長期計画や資源配分を、「前者」はイノベーションを指す。
リスクを最小にするゲームと、成果を最大にするゲームは、別の競技である。ルールが違う。どちらも、それぞれの場では正しい。
守るべきものを守る場面では、リスクを最小にする判断が正しい。だが新しいものを生む場面に同じルールを持ち込むと、手間だけを払って、何も生まれない。
「小さく試したが、何も変わらなかった」。そう感じるとき、起きているのはこれではないだろうか。
だとすれば、問いは「大きく行くか、小さく行くか」ではない。いま自分が回しているのは、どちらのゲームなのか、である。
ひとつ、目安がある。達成しても、去年と同じ景色しか見えない目標なら、それは低すぎる。
57年前の1行は、私たちを励ましてはくれない。ただ、どこで力を無駄にしているのかを、静かに指し示している。






