世界1200都市を訪れ、1万冊超を読破した“現代の知の巨人”出口治明元APU学長。宮部みゆき氏などから絶賛されている出口氏の『哲学と宗教全史』をもとに、哲学と宗教の視点から見る「デカルトが教えてくれること」とは? ライターの照宮遼子氏がレポートする。(構成/ダイヤモンド社・寺田庸二)
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すべてが止まった「ニュピの夜」
以前、バリ島で「ニュピ」と呼ばれる一日を過ごしたことがある。
住民だけでなく観光客を含むすべての人に外出や電気の使用が禁じられる静寂の日だ。
当時の私は仕事を辞めたばかりだった。
ニュピの夜は、街から明かりが消え、見上げると空いっぱいに星が広がっていた。
一人でその景色を眺めているうちに、なぜか涙が出てきた。
外の世界から切り離された静けさの中で、不安も遠のき、いつもより自分自身と向き合っていたのだと思う。
デカルトが「我思う、ゆえに我あり」にたどり着いた理由
普段、意識することのない「自分」という存在が、ふいにはっきり感じられる瞬間がある。
その存在を徹底的に考えたのが、『哲学と宗教全史』(出口治明著)で紹介されているフランスの哲学者ルネ・デカルト(1596~1650)である。
ところがすべてを疑っている自分だけは常に確実に存在している。
かくして、「我思う、ゆえに我あり」。
このことだけが真実であるとデカルトは言い切ったのです。
――『哲学と宗教全史』より
デカルトは、疑うこと自体を目的にしたわけではない。
確かなものを見つけるために、「疑う」という方法を使ったのである。
それまで神を中心に考えられていた世界を、人間の側から捉え直した。
この大転換が、彼が「近代哲学の祖」と呼ばれる理由の一つである。
私たちは普段、目の前で起きていることには意識を向けても、それを見たり考えたりしている「自分」に目を向ける機会は、意外と少ないものだ。
「自分」を出発点にすると見え方が変わる!
仕事がうまくいけば自信を持ち、誰かに認められれば安心する。
反対に、それらが揺らぐと、自分の存在まで不確かなものに思えてしまう。
デカルトの思想は、外側のものに振り回されそうになったとき、自分自身を起点に考えるという視点を与えてくれる。
今、何を感じ、何を考えているのか。
そこに立ち返るだけでも、見えてくるものは少し変わるのかもしれない。





