味は嫌いなのに泥酔するまで酒を飲み、醒めた後の自己嫌悪に苦しむ……。そんな文豪・坂口安吾の矛盾した姿は、ストレスから暴飲暴食に走る現代のビジネスパーソンと重なります。『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』をベースに、どん底を生きた「落伍者」安吾の言葉から、競争社会で疲弊した私たちが孤独と向き合いタフに生き抜くヒントに迫ります。成功者のノウハウにはない圧倒的なリアリティとは?

完璧なエリートより刺さる…文豪・坂口安吾「有言実行の落伍者」の教え・ベスト1イラスト:塩井浩平
坂口安吾(さかぐち・あんご 1906~1955年)
新潟生まれ。本名・坂口炳五(へいご)。東洋大学大学部印度哲学倫理学科(現・東洋大学文学部東洋思想文化学科)卒。代表作は『白痴』『堕落論』『桜の森の満開の下』など。坂口家は江戸から続く旧家だったものの、祖父が投機に失敗。衆議院議員の父も残された財産を政治資金に使ってしまうなど、没落の過程で少年時代を過ごす。中学生のころから悟りの境地に至りたいと思い始め、大学ではインド哲学を専攻。昭和5(1930)年、大学卒業後友人たちと同人誌『言葉』を創刊したことを皮切りに、文学者を志す。昭和21(1946)年に発表した『堕落論』は戦後混乱期の社会に衝撃を与えた。意欲的に執筆活動を続けていたが、昭和30(1955)年に脳出血により48歳で急逝。

味は嫌いなのに泥酔する文豪
坂口安吾に学ぶ、ビジネスパーソンの「孤独」と「再生」

成果主義のプレッシャーや人間関係のストレスに晒される現代のビジネスパーソン。その重圧から逃れるため、無意識のうちに「手段」が「目的」にすり替わってしまうことは決して珍しくありません。

昭和の無頼派作家・坂口安吾の残した言葉は、そんな私たちの矛盾や孤独の正体を鋭く突いています。

「悦楽より苦痛が長い」現実からの逃避

味も好きではないのになぜ大量の酒を飲み続けたのか。そこには、現代人も陥りがちな「逃避」の心理が隠されています。

だったらなぜそんなに飲むんだと問いたくなりますが、どうも安吾は、おいしい酒を嗜みたいというタイプではなく、「酔っ払いたいから飲む」というタイプだったようです。
――『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』より

何かを味わい、楽しむためではなく、単に「現実のストレスからログアウトするため」の行動。安吾自身も、その行為がもたらす空しさと代償を誰よりも自覚していました。

「酔ふために飲む酒だから、酔後の行状が言語道断は申すまでもなく、さめれば鬱々として悔恨の臍をかむこと、これはあらゆる酒飲みの通弊で、思ふに、酔つ払つた悦楽の時間よりも醒めて苦痛の時間の方がたしかに長いのであるが、それは人生自体と同じことで、なぜ酒をのむかと云へば、なぜ生きながらへるかと同じことであるらしい」『酒のあとさき』(『坂口安吾全集05』筑摩書房に収録)
――『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』より

酔っている一瞬の快楽よりも、醒めた後の自己嫌悪や苦痛のほうが圧倒的に長い。それでも飲んでしまうのは「生きること自体の苦痛」と同じだという死生観です。

これは、仕事の重圧を暴飲暴食や衝動買いで一時的に紛らわせ、翌朝に激しい後悔に襲われる私たちにも通じる心理と言えます。

「完璧な勝者」を目指して疲弊する前に

私たちはビジネスの場で、常に「有能であること」「成功すること」を求められます。しかし、走り続けることに疲れたとき、安吾のような生き方が一種の救いになることがあります。

安吾は有言実行した「落伍者」であり、それだけに社会からとり残されたような寂しさや虚しさを感じたときには、それを忘れさせてくれるような言葉の力が宿るのです。
――『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』より

競争社会において「落伍者」になることは恐怖でしかありません。しかし、自らの弱さや醜さを隠さず、どん底を這いつくばって生きた安吾の言葉には、綺麗事ではない圧倒的なリアリティがあります。

キャリアの挫折や他者との比較に苦しみ、「社会から取り残された」と感じたとき、人は完璧な成功者のノウハウ本よりも、傷だらけの敗者の言葉に深く共鳴するものです。

自分の弱さから目を背けるために何かに依存するのではなく、時に立ち止まって孤独や虚しさと真っ向から向き合うこと。それが、変化の激しい現代社会をタフに生き抜くための、もう一つの「強さ」なのかもしれません。