ハプスブルク帝国とEU。一方は王家が支配した多民族国家、もう一方は国家同士の合意で成り立つ現代の共同体だ。まるで別物に見える両者だが、実は同じ難問と向き合ってきた。それは、言葉も文化も歴史も異なる人々が、どうすれば「違うまま一緒に」暮らせるのか、という問いである。かつてチェコ人やハンガリー人などを束ねたハプスブルク家の経験は、国境を越えて協力するEUの姿に何を問いかけるのか。書籍『地図で学ぶ「深読み」世界史』の著者が、王家とルールという統治の違いを手がかりに、ヨーロッパの過去と現在をあらためて読み解く。

教養のある人も意外と知らない「ハプスブルク帝国とEU」が抱える共通の難問とは?Photo: Adobe Stock

ハプスブルク帝国とEUが抱える「意外な共通の難問」

 ハプスブルク家とEUを直接つなげるのは、もちろん単純すぎる。EUは第二次世界大戦後、フランスや西ドイツなどが再び戦争を起こさないため、石炭や鉄鋼といった重要産業を共同管理するところから発展してきた。制度として見れば、中世以来の王朝国家とは正反対の存在である。

 それでも、両者を並べてみると面白い共通点がある。それは、「異なる言語や文化を持つ人々を、違いを残したまま一つの政治的枠組みに入れる」という課題だ。

 ハプスブルク君主国では、チェコ人、ハンガリー人、クロアチア人、ドイツ語系住民など、多様な人々が同じ王家の支配下にいた。地域ごとに法律も制度も違い、それぞれの歴史的な権利もあった。中央政府がすべてを一律に決める国家ではなかったのである。

「違うまま一緒にいる」現代EUに受け継がれた難問

 現代のEUも、加盟国が国家としての主権をすべて手放しているわけではない。フランスはフランス、ドイツはドイツのままでありながら、一部の政策や市場、通貨などを共同化している。統一国家ではなく、「違うまま一緒にいる」仕組みを作ろうとしている点では、似た難しさを抱えている。

 もちろん、ハプスブルクの統治は世襲君主制であり、EUは加盟国間の条約と民主的制度によって成り立つ。両者を同じものと考えることはできない。しかし歴史上、中欧では何世紀にもわたって「多様な地域をどうまとめるか」という問題が繰り返されてきた。

 だからこそ、ハプスブルク家出身のオットー・フォン・ハプスブルクが、後にヨーロッパ統合を支持したことは象徴的に見える。帝国が消えても、「ヨーロッパを国境だけで切り分けない」という発想までは消えなかった。

「王家」でまとめた帝国、「ルール」でつながるEUの決定的な違い

 そして、両者の大きな違いにも意味がある。ハプスブルク君主国ではまとめる力の中心に王家があったが、EUでは条約や制度がその役割を担っている。人ではなくルールによって多様性を束ねようとしているのである。仕組みは違っても、問題は似ている。多様性を残せば対立が起き、統一を強めれば反発が生まれる。そのバランスをどう取るかという問いは、今も続いている。