東大招聘を断った背景には
若妻との再婚が…
東京帝国大学経済学部のシュンペーター招聘作戦は1924年12月から1925年9月まで順調に進んでいた。しかし、強力なライバルが登場する。ドイツのボン大学財政学教授の人選がほぼ同時期に進んでいたのである。
曲折を経て、7月にボン大学法=国家学部教授会(★注1)がシュンペーターをノミネートし、プロイセン文部省が審査のすえ、10月5日、正式にボン大学教授のオファーを出したのである。シュンペーターはすぐに受諾した。日本人としては残念な結末である。
借金を抱えていたとすれば、高給を約束されている東大に行った方が有利だったはずだが、じつはシュンペーターは再婚を考えており、異国の結婚生活よりも外国とはいえドイツ語で生活できるボンを選んだ側面もあるだろう。
この婚約者はウィーンで母親が住むアパートの管理人の娘、アニー・ライジンガー(Annie Reisinger)である。父親は日本語にするとアパートの管理人だが、貴族用高級マンションのコンシェルジェである。昔からの顔なじみだったのだろう。
ボン大学教授へのオファーを受諾してから1か月後の1925年11月5日、ウィーンのルーテル教会でプロテスタントに改宗し、結婚式をあげた。カトリックのままでは、とっくの昔に別れていた前夫人との正式離婚が認められないからである。
アニーはこのとき22歳、シュンペーターは42歳だった。年齢差20歳の結婚である。アニーは日記を書いており、ラブラブの様子が残されている(★注2)。
莫大な賠償金とハイパーインフレに
苦悩するドイツ
シュンペーターがウィーンからボンへ移住した1925年、ドイツはどのような状況だったのだろう。第1次大戦後、1920年代ドイツのマクロ経済の概略を復習しておく。
シュンペーターがドイツ社会化委員会に参加したのが1919年1月から3月、第2次社会化委員会委員に名前を連ねたのが1920年春だったことはこれまで書いてきたとおりである。その後ウィーンのビーダーマン銀行頭取を務めていたので、ボンへ移住するまでドイツとは縁がなくなっていた。この間、連合国への賠償金問題をめぐり、共和制ドイツは苦悩していた。