このようになんとか両者の関係を絶とうと試みたが、互いの個人的な敵対感情を和らげることはできなかった。1901年、フリックは名うてのJ・ピアポント・モーガン社を後ろ楯にして復帰、カーネギー製鉄会社を5億ドルで買収する。ここに株式時価総額が14億ドルに達する世界最大の製鉄会社USスチールが誕生した。

時代と業績

 カーネギーはアメリカが工業化を進めるうえで指導的な役割を演じた。貧しいスコットランド生まれの少年が、長じて世界最高の富裕層の仲間入りをした。その貧困から資産家への出世物語は、他に例を見ない。経営者としてのカーネギーには、非難と称賛の両方の評価が常にあい半ばしていた。一方で独善的、専制君主的、独裁的、あるいは人使いの荒い傲慢な人物だと言う人もいれば、その一方で分別があり、慈悲深く、聡明な起業家だと評価する人もいる。

 カーネギーに備わっているたくさんの資質のなかでも、ひときわ目につくのは、直観に従って巧みに機会をとらえる能力だ。あらゆる機会をとらえて自分の事業の勢力拡大に努めている。たとえば、イギリスの皇太子をペンシルベニア鉄道の機関車の乗車に招待したときも、彼の本当の目的は、自分の社会的地位を上げるというよりも、自らの事業の有利な立場を確保することだった。

 カーネギーはその大胆な事業展開はもちろんのこと、慈善事業家としても同じように人々の記憶に残ることになるだろう。晩年には慈善活動への信念から、資産の大部分を寄付している。そして「人類の進歩のために」信託資金を設立した。過去、カーネギーピッツバーグ協会、カーネギーテクノロジー協会、カーネギーワシントン協会、そして3000ヵ所の公立図書館がこの信託資金によってつくられている。この「鉄鋼王」は1919年8月に他界するそのときまで、その資産から3億5000万ドルを寄付していた。

プロフィール
1835 誕生
1848 一家がペンシルベニア州ピッツバーグ近郊のアレゲーニーに移住。12歳のカーネギーは綿紡績工場に就職した
1870 初の高炉を建設。ベッセマー製鋼法の実用化を目指す
1874 ブラドックに製鉄所を設立
1880 24時間稼働を実施して200万ドルの利益を上げる
1881 会社を改編してカーネギーブラザーズ・アンド・カンパニーとする
1882 ヘンリー・C・フリック社からコークス製造会社を買い取る
1886 「勝利に満ちた民主主義」を書く
1889 ニューヨークに移り鋼鉄製造プロセスの研究開発を指揮。「富の福音」を出版。鉄鋼生産33万2111トンを記録
1899 同じく生産量266万3412トンとなる。フリックを買収
1900 フリックとJ・ピアポント・モーガン社がカーネギー製鉄会社を5億ドルで買収
1919 他界

著書/関連書
「カーネギー自伝」
アンドリュー・カーネギー 著/坂西志保 訳(2002年発行 中央公論社)