アップル・コンピュータ社の共同創立者スティーブ・ジョブズは、庶民の英雄のようなCEOだ。多くの優良企業と同様、アップル社もガレージで産声を上げた。創立したのはジョブズと、技術に造詣の深いスティーブ・ウォズニアックの2人だった。
アップルのパーソナルコンピュータ(PC)は、コンピュータ操作のありようを変えてしまった。もっとも、残念なことに、オペレーティングシステム(OS)とハードウェアを一体化するという、戦略上の誤りを犯してしまった。マイクロソフト社が向かった方向はこれと反対で、MS-DOSをどんなPCメーカーにもライセンスする方針を取った。その後の話はここで述べるまでもないだろう。
1985年、ペプシ社の会長だったジョン・スカリーがアップルの業績不振を打開するため同社に招かれると、創立者のジョブズは同社を去った。そのスカリーも1993年に解雇され、ジョブズが復帰要請を受けることになる。
アップルに復帰を果たすと、ジョブズは同社に新たな息吹を吹き込んだ。多くのファンに言わせれば、アップルの業績を回復させたことで、ジョブズは偉大なIT起業家としての力を証明した。
生い立ち
1955年2月、ポール・ジョブズとクララ・ジョブズは孤児を引き取った。名前はスティーブン・ジョブズ。育ったところはカリフォルニア州ロスアルトスだ。
学校を卒業すると、ジョブズはヒューレット・パッカード社で行われていた講習を受ける。カリフォルニア大学を中退したスティーブン・ウォズニアックに初めて会ったのは、ヒューレット・パッカードで仕事をしていたある夏の日だった。ウォズニアックは技術のわかる神童で、絶えずいろいろなおもちゃを発明していた。
再びウォズニアックに出会ったのは、「自作コンピュータクラブ」の集会に出席したときだった。クラブの会員のほとんどはコンピュータおたくで、ダイオード、トランジスタ、そしてこれらを材料にしてつくった電子機器のおもちゃ以外には目もくれなかった。ジョブズは彼らと違い、コンピュータのスタイル、使い勝手、市場性に対する確かな目があった。ジョブズはウォズニアックに対して、2人で協力してPCをつくり上げようと説得する。アップルIの設計はジョブズの寝室、プロトタイプの組み立てはガレージだった。