資本主義は、「自由」を本質とする経済体制だ。そしてその自由な経済は、僕らを“勝ち組”と“負け組”とに分ける。それはもう残酷なまでにくっきりとだ。なぜなら、自由をめざしていけば、世の中は必然的に競争社会になるからだ。

 経済的に見た「自由な社会」とは、私有財産が認められ、モノの売り買いの場所(=市場)があって、そこで自由に競争できる社会のことだ。そんな環境が与えられたら、僕らは少しでも他人のモノより「安くていいモノ」(=競争力のある商品)をつくって売ろうと努力する。

 なぜなら、人より安くていいモノは、他人のモノより売れ、僕らの財産を増やし、僕らをハッピーにしてくれるからだ。そのために僕らは、日夜精進する。その目標に向かって努力する姿は、とても勤勉で美しい。

 でも待てよ。なんで僕らは、人のモノより「安くていいモノ」をつくろうと思うんだ? それって冷静になって考えると、まるで「自分だけ幸せになりたい」と思っている浅ましいやつみたいじゃないか。

 その通り! 僕らはみんな自分だけ幸せになりたいと願っている、浅ましいやつなのだ。覚えておけ。資本主義とは「欲望の体系」だ。この世界で幸せをつかみたいなら、誰も物質的な豊かさを否定できない。

 そこに善悪を持ち込むのは、倫理の世界。経済学と真摯に向き合う姿勢じゃない。こら孔子、倫理は隣の教室だぞ。ここは経済学。ほら、みんなニセウルトラマンみたいな目をしているだろ? ここは腐海だ。お前みたいな聖人君子は5分で肺が腐るから帰れ。こら、間違えて来たくせに、みんなに「利は怨みを買う」とか説くな。お前、逆にすごいな。いいから早く行けって!

 経済学の教科書には、善人なんか出てこない。登場人物は全員、利己的で欲望まみれの悪人だ。そんな彼らが、みんな「自分だけ幸せになろう」と思って努力する。もう清々しいまでの「ピカレスク・ロマン」(悪漢物語)だ。経済学では、こういうピュアな“あさましい欲望”こそが、競争社会を勝ち抜く原動力になる。

 聖人君子なんて、競争社会ではただの弱者だ。『ドラゴンボール』でいえば、敵のスカウターに反応すらしないほどの“戦闘能力ゼロ”のやつだ。頼むから、おとなしくミスター・サタンと岩陰にでも隠れていてくれ。こら、フリーザの前に出て、愛や道徳を語るな。瞬殺されるぞ。