大正2(1913)年の創刊から現代まで、その時代の政治経済事象をつぶさに追ってきた『週刊ダイヤモンド』。創刊約100年となるバックナンバーには、日本経済の埋もれた近現代史が描かれている。本コラムでは、約100年間の『週刊ダイヤモンド』をさかのぼりながら紐解き、日本経済史を逆引きしていく。 最終回の今回は、「経済雑誌ダイヤモンド」創刊前後の文化史をひもといてみたい。
時事新報社社長・武藤山治と
取締役・石山賢吉(1932)
1932(昭和7)年4月、「経済雑誌ダイヤモンド」を1913(大正)2年に創刊し、ダイヤモンド社の社長をつとめていた石山賢吉(1882-1964)が時事新報社の取締役に招かれる。同時に時事新報社長へ就任したのは鐘紡社長の武藤山治(1867-1934)だった。
武藤は危機にあった時事新報社の再建のために社長として招かれ、武藤が石山を役員にしたと考えられる。石山賢吉は4月に取締役、11月には監査役へ就任している。
「時事新報」は福沢諭吉(1835-1901)が1882(明治15)年に創刊した日刊紙で、1930年代まで東京の5大新聞に数えられる有力紙だった。当初、福沢は政府系の新しい新聞を創刊する予定だったが、明治14年の政変で大隈重信が下野したことにより頓挫し、福沢が慶応義塾の中で独自に創刊した新聞である。
明治14年の政変(1881年)は、憲法制定の議論のなかで、王室を戴きながら議院内閣制を敷くイギリス型をモデルとするか、あるいは皇帝の大権を議会より上位に置くドイツ型を押すか、2つのグループが対立していたなかで起きた一種のクーデターである。
イギリス派が大隈重信(1838-1922)であり、彼のブレーン、福沢諭吉門下の慶応義塾OBたちだった。ドイツ派の伊藤博文や井上毅らが、即時国会開設を訴える大隈を政府から追い出したのがこの政変である。
福沢は翌1882年に「時事新報」を創刊し、大隈は国会開設に臨んで立憲改進党を設立、東京専門学校(早稲田大学)を創設した。「時事新報」は慶応義塾の俊才を次々に雇い入れ、福沢が頻繁に執筆する新聞となり、紙価を上げていったが、後年、1920年代の不況や関東大震災によって体力が落ち、部数は減少に転じる。競争激化の中で敗れていった面もある。
武藤山治は再建のために招かれた慶応OBのキーパースンだった。社長就任後、2年目の1934年1月、「番町会を暴く」というタイトルで、帝人株をめぐる贈収賄疑惑を報じ、背後で暗躍する財界人グループを告発する連載を開始し、政界を巻き込む疑獄事件に発展した。これを「帝人事件」という(★注①)。部数は伸びたが、かなり強引な記事づくりで誤報説も強く、その後も真相は解明されていない。同年末に財界人と大蔵官僚10人が起訴されたが、1937年に全員無罪となっている。
連載開始から3ヵ月後の1934年3月9日、武藤が銃撃され、66歳で没すると、時事新報社の経営は再び悪化し、2年後の1936年12月、東京日日新聞社が時事新報社を統合する。東京日日新聞社は1943年に毎日新聞社へ統合された(★注②)。なお、武藤暗殺の真相も、わかっていない。
武藤没後、石山は監査役を退任していると思われる。武藤が石山を招聘したのは、時事新報社が慶応義塾のOBによって成り立っている新聞社だからであり、経営再建には慶応OBで雑誌経営者の石山が適任と考えたのだろう。創刊当初より武藤は「ダイヤモンド」にしばしば寄稿していた仲でもあった。