装置の改造で鍛えた職人芸で
独自のアイディアを実現する

 その荒野を、職人芸ともいえる執念で駆け抜けたのが中村だった。日亜化学で赤や黄緑のLEDを手がけていた中村が、本格的に青色LEDに挑戦する際には、八八年にフロリダ州立大学工学部へ短期留学した経験がバネになった。徳島大学の教養課程で味わったのと同じように、ここでも「キレ」て、「コンチクショー精神」に火がついたからだ。

 トレード・シークレット(企業秘密)の漏洩に神経質な日亜化学は、学会発表や専門誌への論文投稿を禁じていた。そのため、それまで中村には論文掲載の実績がなかった。大いに学んでこようと乗り込んだフロリダ州立大学で真っ先に聞かれたのは「博士号を持っているか」「どんな論文を書いているか」だった。どちらも「ない」と答えると、途端に相手にされなくなった。研究員のはずが、研究補助員に“格下げ”され、結晶薄膜の製造装置であるMOCVDの組立てを命じられた。

 留学の一年間ほとんどを、日亜化学で一〇年間やってきたのと同じ配管や溶接などの作業に費やさざるをえなかった。中村は激しく落ち込むと同時に、心の底からキレた。だが、この時感じたコンチクショーという不満が、後に独自の工夫に結実するわけである。

 帰国後、本格的に開発を開始するにあたっては、窒化ガリウムを選ぶか、セレン化亜鉛を選ぶか、二者択一の難問が待ち構えていた。企業や学界でセレン化亜鉛が主流になっているなかで、中村は迷わず窒化ガリウムを選んだ。当時、日本で最先端を走っていると思われた赤崎の論文しか意図的に読まなかったうえ、なにより「大企業がどこも研究していなかった」ことが窒化ガリウムを選ぶ動機になった。

 MOCVDが届くと早速実験を開始したが、どうやってもうまくいかない。サファイアの基板にアンモニアガスと水素に混ぜたガリウムを噴きつけ、基板上で窒化ガリウムの結晶薄膜を成長させようとするのだが、高温になった基板による熱対流でガスが上へ飛ばされてしまい、うまく結晶ができない。この熱対流の処理をどうするか。

 そこで中村は、上昇するガスを上から押さえつけてみたらどうかと考え、フロリダ州立大学で培った体験を生かしてMOCVDの改造に取りかかった。そして、基板の上から窒素と水素ガスを強く噴きつけ、横からガリウムとアンモニアガスを流す――二つの噴き出し口を使う方法「ツーフロー方式」で高品質の窒化ガリウム薄膜結晶を生み出すことに成功した。実験の成功は九〇年秋で、技術雑誌の「アプライド・フィジックス・レター」に論文が掲載されたのは九一年であった。

 その後は、中村の単独行が続く。熱処理によってP型半導体をつくることに成功。さらに、窒化ガリウムにインジウムを加えた窒化インジウムガリウムの結晶薄膜をつくり上げた。これによって実用に耐える高輝度の青色LEDが可能になり「それからは何をやっても世界初、世界初の輝度を実現」し、企業人として大量生産の技術を確立していった。