既に日本にとって火急の課題である人口減少。政府も手をこまねいていたわけではなく、次々と対策を打ち出してきた。だが出生率の低下は止まらない。従来の少子化対策には根本的に欠落しているものがあり、このままでは「女性活躍推進」=「少子化推進」の悪循環を繰り返すことになる──。ニッセイ基礎研究所の天野馨南子研究員は、自身の過酷な経験も踏まえた上で、そう指摘する。(まとめ/ダイヤモンド・オンライン 河野拓郎)

次々と打ち出された政府の少子化対策
だが出生率の低下は止まらなかった

従来の政策は“育児環境支援”が中心だったが…… Photo:milatas-Fotolia.com

 日本の少子化が始まったのは半世紀以上も前です。1961年に初めて合計特殊出生率(以下、出生率)が2.0を切り、75年以降は2.0を常に下回り続けています。要は女性1人から2人の子どもが生まれない、ということですが、98年以降は恒常的に1.5を切る、先進国でも最低レベルの超低出生率となっています。

 これに対して、政府は次々と少子化対策を打ち出してきましたが、何ら出生率にインパクトを与えることができませんでした。

 低出生率の要因には、他の先進国と同様、「女性の社会進出」があります。まずその流れと、政府の少子化対策の歴史を大まかに振り返ってみます。

あまの・かなこ
1995年東京大学経済学部卒業。日本生命保険相互会社を経て現職。専門分野は女性活躍推進・少子化対策。日本労務学会、日本性差医学・医療学会、日本保険学会、日本証券アナリスト協会、性差医療情報ネットワーク会員。著書に『人を活かす企業が伸びる─人事戦略としてのワーク・ライフ・バランス』、『子育て支援シリーズ 第2巻 ワーク・ライフ・バランス─仕事と子育ての両立支援』(いずれも共著)。

 戦後、戦争未亡人も含め女性を労働力化していこうという動きがありました。その中で、女性の労働に関する法律としては1972年に「勤労婦人福祉法」が施行されました。しかしこの時点では、女性活用というよりはあくまでも母性保護の観点にすぎなかったと思います。女性活躍推進の法整備の契機となったのは、85年の「女性差別撤廃条約」に日本が批准したことです。それに取り組まないことには先進国と認めてもらえない、という状況だったのです。

 当時、既に出生率は2.0を切っていましたが、その後92年まで、育児休業に関する規定はありませんでした。“勝手に産んで、勝手に働いてください”ということだったわけです。女性は、仕事を取るか、出産を取るか、という選択肢しかなかった。

 当然ながら、出生率はさらに下がってきます。そして89年、「1.57ショック」が起こります。迷信とはいえ歴史的に出生率が下がる直近の丙午(ひのえうま)の年を下回るような、低出生率に突入したのです。

 これはまずいということで、92年、「育児休業法」が施行されました。後手後手に回った感は否めませんが、同年以降は、育児支援に関する法律が5年を置かない間隔で次々と打ち出されてきています。その背景には、先進国の中でも異常なスピードで日本の出生率が低下している、ということがあります。