ゴルフ界の「貴公子」
AON相手に奮起

 静岡県御殿場市で生まれ、今もそこに拠点を構えている芹澤が、ゴルフを始めたのは18才のときだった。

「高校時代はスキーをやっていて、国体にも出場しました。大学でも続けるつもりだったんですが、スキーをやるにはお金が掛かる。それで夏場に実家から10分のゴルフ場で、キャディのバイトをやっていました。キャディをやれば自然とスキーのトレーニングになりますからね。一石二鳥でした」

 ところが大学進学を父親に反対され、スキーの道を諦めざるを得ない状況になる。そこで「プロゴルファーを目指そう」と思い付く。

「ジュニア時代からバリバリプロの試合に出るような今の時代には考えられないことでしょう。父との約束は25才までにプロになるということだけ。たとえなれなくても、そのままゴルフ場に勤務させてもらえばいいという、実に安易な考えでした(笑)。石川遼君のように、20才でマスターズ出場というようなロマン的な目標はありませんでした。プロになれなかったら? 実家のクリーニング屋を手伝っていたかもしれませんね」

プロゴルファー、芹澤信雄<br />「僕を踏み台にして越えていけ」ビートたけしに「師匠」と呼ばれていた芹澤は、1987年の日経杯で初優勝を飾った(読売新聞/アフロ)

 22才でプロテストに合格し、27才のときに「日経杯」で初優勝を飾った。時代は青木功、ジャンボ尾崎、中嶋常幸というAONの全盛期にあって、173㌢㍍とさほど大きくはなく、アイドルのような風貌の優男である芹澤はゴルフ界の「貴公子」「プリンス」と呼ばれ、一躍、人気者となっていく。1989年にはベストドレッサー賞まで受賞した。

「一般体型の僕が勝ったことで、何となく親しみを感じてくれたんだと思います」

 芹澤はテレビ業界で長くレッスン番組に出演し、プレー以外の面からもゴルフの魅力を伝える伝道師的役割を担っていく。

「僕の喋りをうまくしてくれたのって、(ビート)たけしさんです。兄が運転手をしていた縁で、86年にいわゆる「FRIDAY」襲撃事件があってたけしさんが芸能界を休んでいた時期、たけしさんに個人的に呼ばれてゴルフを教えていたんです。以来、僕のことを『師匠』と呼んで、ゴルフ番組をやるときにはゲストに招いてくれました。たけしさんがいなかったら、今の僕はないかもしれませんね」

 プロとしてシードを獲得し、人気を得ても、芹澤は拠点を御殿場から移そうとは考えなかった。

「全国を転戦するわけですから、東京に移った方がいいんじゃないかと、さんざん言われました。だけど、大自然の中で育った人間なので、人混みを見ると具合が悪くなるんです(笑)。いくら優勝することができたとしても、来年はダメになるかもしれないという不安は常にあった。ゴルファーは1年1年が勝負です。それならすぐ近くにゴルフ場があるような環境に身を置いた方が、ツアーで結果を残せると思いました」