にせオッパイ

 そんな時である。

 昭和24年(1949年)の初夏、東京の協立商会という会社のセールスマンがブラジャーを売り込みにきた。

 待っていた商品が向こうから来てくれたのである。当然、気合いが入る。2ダース仕入れたがすぐに売り切れ、すぐ追加注文した。

 ところがその後、商品が入ってこなかったのである。戦後の混乱期では珍しくないことであった。

 肩すかしに落胆していると、入れ代わりに同じ年の8月初め、大宝物産社長の安田武生という人物が幸一を訪ねてきた。

 戦前は丸物百貨店(現在の近鉄百貨店)の洋裁部にいたという安田は “オマンジュウのようなもの”を持ってやってきたのだ。

“にせオッパイ”との出会いブラパット

 幸一は後にこれを“にせオッパイ”と面白おかしく表現しているが、これこそ女性下着に進出するきっかけを与えてくれた“ブラパット”だった。

 アルミ線を蚊取線香のように巻きあげたスプリング状のものに古綿をかぶせ、布にくるんである。バストラインを補正するために作られたものだった。

 (これから日本の女性は絶対洋装化する。これまでは和服やからバストラインなんか気にしなくて良かったけど、洋装になったら一番のポイントは何と言ってもバストラインや。美しいバストラインを作るこの『ブラパット』はこれから絶対必要になるはずや!)

 そんな直感が走った。今度は安定的に供給してもらえそうだ。

 幸一はこの新商品にすっかり惚れ込んだ。

 安田がこの時、幸一の神経に障ることを口にした。

「実は青山はんにも買ってもらいましてん」

 “青山はん”とは宿敵青山商店のことである。いつもアクセサリーの販売で競合している相手に、負けてたまるかという敵愾心がいやが上にも燃えた。

 (この商品が日本中で流行するかどうか、それを試すならやはり東京や。東京でも、とりわけ流行の中心である銀座や! 銀座で売れたら絶対売れる)

 東京で売りはじめることで青山商店の機先を制しようとしたのである。幸一の真骨頂は行動力だ。彼はその場で安田のもちこんできたブラパットを全部仕入れると、9月5日、夜行にとび乗って東京へと向かった。