エスティ・ローダー

 アメリカにおける化粧品の女王エスティ・ローダー(1908~)が送った若き日の人生のほとんどは、謎に包まれている。はっきりしているのは、ローダーが1924年におじの「シックス・イン・ワン」というコールドクリームを売ったことから化粧品の事業に乗り出した、ということだ。1944年になるころには、結婚し、ニューヨーク市にオフィスを構え、そしてサックス・フィフスアベニューの中に化粧品店を開いていた。

 ローダーは1947年、正式にエスティ・ローダー社を設立。株式公開の要求に逆らって、会社を身内の目の届く範囲におさめながら、その販売とマーケティングに対する恐るべき才能を発揮して、会社を強力に引っ張っていった。1963年には、売上高が予想通り4000万ドルとなり、利益も400万ドルを記録する。1972年に、息子のレナードに経営の座を譲った。1999年になると、エスティ・ローダー社は100点以上の製品から30億ドル以上の売上高を記録するようになっていた。

生い立ち

 エスティ・ローダーは1908年、ニューヨーク市クイーンズに生まれる。名前はジョセフィーン・エスター・メンツァー、9人きょうだいの末っ子だった。父親は金物店を経営していた。

 おじで化学者でもあったショッツ博士を通して、若いローダーは化粧品事業に足を踏み入れることになった。ショッツの事業、ニューウェイ・ラボラトリーズが設立されたのは1924年だ。博士がつくるさまざまな外用そして内服用の水薬(家畜についたノミの駆除剤、ペンキ剥がし、ニス、強壮剤などもある)のなかに、美容のための薬剤もいくつか入っていた。ローダーは「シックス・イン・ワン」や「ショッツ博士のウィンナクリーム」といった名前の製品の販売を手伝った。

 1930年にジョー・ローダーと結婚するものの、1939年にはすでに別居していた。その後の調停によって、結婚そのものは1942年まで続く。

成功への階段

 そしてこの年、ローダーは化粧品の販売にその全精力を注ぐ決心をした。おじの製品の販売を続け、1944年2月にはニューヨーク市の60丁目東39番地に自分のオフィスを構えている。

 そのあとすぐ、ローダーはボンウィット・テラー・デパートのフロアに売り場を確保した。そのときさらに高い目標を立てる。その目標はサックス・フィフスアベニューの中に店舗を持つことだった。サックスの化粧品仕入れ係のボブ・フィスクに、ローダーの店舗はサックスにふさわしいはずだ、と訴えた。

 ところがフィスクはいい顔をしなかった。サックスの顧客がローダーの製品を買うわけがない、というのがその理由だった。これにひるむことなく、ローダーはウォルドーフ・アストリア・ホテルでの講演の機会に製品を無料配布して需要をつくり出した。フィスクにもう一度掛け合い、ついに説得することに成功した。