世の中では忘れている人も多いと思われるが、2011年3月11日午後7時18分に政府が発表した「原子力緊急事態宣言」は、5年以上経つ16年4月現在でも解除されていない。東京電力福島第一原発事故で被爆した人は約23万人、避難生活を続けている人は約10万人いる。世界で3例目となったメルトダウン(炉心溶融)事故は、今も未解明の問題を残す。そんな中、1950~60年代の日本の原発黎明期を知る当事者を探し当て、取材を重ねた烏賀陽弘道氏に話を聞いた。(聞き手/「週刊ダイヤモンド」編集部・池冨 仁)

――5年近くもの月日を費やして書かれた『福島第一原発 メルトダウンまでの50年』(明石書店)は、過去の歴史を淡々と掘り起こす作業を通じて「東京電力が、“どのような場所なら原発を建ててもよい”という立地基準を国が定める前に、独自の基準で建設地を選定していた」など、ショッキングな話がたくさん出てきます。電力会社が先に決めたというのは、どういうことなのですか。

なぜ津波到達までに緊急炉心冷却装置は起動されなかったのか(上)うがや・ひろみち
1963年、京都府生まれ。京都大学経済学部を卒業後、朝日新聞社に入社。5年間の新聞記者生活を経て、91年~2001年は「AERA」編集部に籍を置く。米コロンビア大学の国際公共政策大学院に自費留学し、国際政治と核戦略を学ぶ。03年に朝日新聞社を退社し、フリーランスのジャーナリスト兼写真家となる。11年3月の東日本大震災以降は、被災地を回って“原発災害”の実態を調査・記録し続ける。著書・共著に、『「朝日」ともあろうものが。』(徳間書店)、『俺たち訴えられました!』(河出書房新社)、『報道の脳死』(新潮社)、『原発事故 未完の収支報告書 フクシマ2046』(ビジネス社)などがある。Photo by Shinichi Yokoyama

 1950~1960年代の日本における原発黎明期の政策を調べていくと、驚くような事実がいくつも出てきます。私は「福島第一原発事故の原因は、50年以上前からあったのではないか」と考えるようになりました。50年以上かけて、さまざまな原因が蓄積された結果として、今回の事故に至ったのではないかということです。例えば、福島第一原発の2号機は、11年3月に起きた東日本大震災の前年、10年6月にも「原子炉を冷却するための電源を失ったことで、炉内が空焚きになり、燃料棒が露出する寸前に至る」という事故を起こしています。

 順番にお話ししますと、国(当時の原子力委員会。現原子力規制委員会)が「原子炉立地審査指針」を定めたのは52年前の1964年(昭和39年)5月です。一方で、東電が福島県の大熊町と双葉町に跨る旧陸軍の航空基地だった広範な土地を確保する方針を決めたのは60年(昭和35年)8月。当時の福島県知事が積極的に受け入れたことで原発の誘致計画が正式発表されたのが同年11月。運転開始は71年3月です。福島第一原発の立地に関しては、国からは何の規制も指導もなかったのです。原発の歴史を紐解いていくと、当時は「国がルールを決めて、電力会社を監督する」という関係にはありませんでした。

 私が調べた限りでは、そうした“立地が先に決まった原発”は、東電の福島第一原発以外にも複数あります。研究炉を除くと、日本原子力発電(げんでん)の東海発電所(茨城県。66年に運転開始)、同じく敦賀発電所(福井県。70年に運転開始)、関西電力の美浜発電所(福井県。70年に運転開始)などがそうですね。関電の美浜発電所は、「人類の進歩と調和」を掲げて70年に大阪で開催された日本万国博覧会に送電したことでも知られています。

――東電は、1955年(昭和30年)頃から、原子力発電を採用する方針を決めていたと言われます。なぜ当時は、国と事業者の関係は逆転していたのですか。