なんてことを言うのだ、この男は!会って数分の人間に「自己中なのを認めろ」「エゴにすぎない」とさんざん罵倒された経験は、さすがに初めてである。
長い付き合いの友達にも、言われることはなかなかないであろう失礼極まりないセリフを、この男はなんの悪びれた様子もなくばんばん浴びせてくる。
仮に、長い付き合いの友達に「自己中なところがある」と言われたなら「そっか、これから気をつけるね」と自分にも非があったな、と反省するだろう。
しかしさっき出会ったばかりの怪しい男に「お前は自己中だ」と罵られると、なんというかこう、ただただ怒りゲージの値がグングンと上昇していくだけである。私はこみ上げてくる怒りを抑えようと、ひとまず深呼吸し、気持ちをととのえた。
「うーん、自己中なところもたしかにあるよ。けど、自己中なだけじゃいけないとも思っているよ」
「安心しろ、アリサ。私はなにも自己中な人間がよくないとは言っていない。
アリサに限らず、人間とは利己的で、自己中な生きものなのだ。
むしろ“自己中じゃない自分の方がいい!”とする風潮に疑問を持つべきだとすら思っている」
「それはどういうこと?」
「人間は誰でも、主観でものごとを見ているだろう。
誰だってより良く生きたいし、自分がより快適に生きるために、蹴落とし合いが生まれることはごく自然なことなのだ。恥じることでもなんでもなく、ごくごく普通の摂理なのだ。
しかし、それにもかかわらず“自己中なことは良くない”という風潮がある。
私は、この風潮に不自然さを覚えるのだ」
「不自然さを覚えるってどういうこと?」
「そうだな、つまりだな“自己中ではいけないと思っている人が、多い方が都合がいい”と考えた人たちによって、つくられた“よい”かもしれないということだ」
「それって、本当は自己中なことが悪いことではないのに、悪いとされていて、“自己中なことは良くない”っていう風潮は、つくられたものってこと?」
「そうだ、何が良くて、何が悪いかという基準は、あるようでないからな。奴隷を持つことが良いとされていた時代もあれば、戦争でより多くの人を殺めることが正しいとされていた時代もある。善悪の基準は普遍的ではないのだ。
みんながいいと言っているものがよく思えてくるという経験はアリサにもあるのではないか?」
私は、夜空を見上げ、これまで経験で当てはまるようなことがあったかを考えていた。群青色の夜空に、うっすら白い桜色が映えている。(つづく)
原田まりる(はらだ・まりる)
作家・コラムニスト・哲学ナビゲーター
1985年 京都府生まれ。哲学の道の側で育ち高校生時、哲学書に出会い感銘を受ける。京都女子大学中退。著書に、「私の体を鞭打つ言葉」(サンマーク出版)がある