来る日も来る日も考え抜いた先に、ようやく見えてきた一筋の光明。人はそれを「運」と呼ぶ。岐阜県中津川市に本社を置く「サラダコスモ」社長の中田智洋氏も、そんな強運の持ち主かもしれない。
もやしやカイワレ大根などの発芽野菜を手がけ、36年連続の黒字経営。2016年5月期の売上高は前期比11.8%増の98億円だ。一般的には利益率が低く、「儲からない」と思われているモヤシ業界で活路を見出し、常識破りの経営で成長を続けている。
会えば物腰柔らかな雰囲気の持ち主だが、その一方で、運を呼び寄せる度胸と勘の良さ、行動力も感じさせる。そんな中田氏の仰天な人生とサラダコスモの強さを、3回シリーズで紹介していく。今回はその第1回目である。
1978年、ラムネ製造から
副業の「もやし」を本格製造へ
ところはダイヤモンド社の応接室。部屋に入るなり、中田氏は本棚に並べてあった『地球の歩き方』シリーズにじっと見入った。
若い頃から、旅をするのが好きだったらしい。学生時代には、ひとりでヨーロッパを旅したこともあるそうだ。50代の頃にはアラスカから車に乗って、アルゼンチンへ。66歳になった現在も、「月に2回は南米へ通っている」という。南米での農業生産事業を手がける別会社「ギアリンクス」の社長でもある。
「旅好きはご先祖様から受け継いだ性格といいますか、おじやおばに言わせると、生まれた時からそうだったと。1歳や2歳の頃に、ふつうは人見知りすると思うんですけれども、喜んで親戚の家に出かけて行ったっていいますから。それと、小学校3年生の夏休みでしたか、岐阜県の中津川から母の実家がある神奈川県の大船まで、一人で汽車に乗って行ったことがあります」
――それはかなりの冒険家ですね……。
「片道12時間くらいかかりました。後で聞いたら、『こんな小さな子を一人で汽車に乗せるなんて』と、母は祖父母に随分と咎められたそうです」
生まれ育った中津川市は岐阜県の東南端に位置し、東は木曽山脈、南は三河高原に囲まれ、中央を木曽川が流れる、自然豊かな場所だ。古くは東山道、中山道、飛騨街道などの交通の要所でもあり、江戸時代には宿場町として栄えた。「旅好きな性格はご先祖様から受け継いだ」というのも、うなずける。
そんな中田氏が経営するサラダコスモは、有機栽培・無農薬を基本とする発芽野菜の最大手である。創業は戦後間もない1945年。そこから数えて、二代目だ。
大学を卒業し、家業の「ナカダ商店」に入ったのは1973年のこと。当時はまだラムネの製造・販売が主たる事業で、もやしは副業だった。脳梗塞で倒れた父親に代わり、1978年、中田氏は28歳で社長に就任。先行きの見えないラムネ事業に見切りをつけ、もやしに活路を見出した。当時としては珍しい無添加・無漂白のもやし作りにいち早く乗り出すなどして、現在の地位を築いた。
その後、カイワレ大根の栽培に乗り出すも、1996年には大腸菌「O-157」による食中毒事件で注文が途絶えるなどの危機にも直面。2000年代に入ると、国内で初めてちこりの栽培にも乗り出し、06年には生産と観光が一体となった「ちこり村」をオープン。2016年には日本初となる「オーガニックもやし有機JAS規格」の認証も取得している。従業員はパート等を含めて約680人という規模である。