空前の土地・株の暴騰によって、全国に金満施設が創られた平成元年(1989年)。今の時代から振り返れば、「あり得ない」と言いたくなるような金満施設、カネがらみの事件が頻発した年でもあった。

奇跡の一本松の隣にいまもある
バブルの象徴「陸前高田の迎賓館」

 宮城県境に接する岩手県陸前高田市。東日本大震災で多くの命を呑みこんだ津波に襲われ、市の中心部がほぼ壊滅した光景は今も記憶に新しいが、その沿岸部には国の名勝に指定された高田松原が観光地として人気を誇っていた。7万本あった松はたった1本を残して、津波に流される。被災と復興の象徴となった「奇跡の一本松」である。

日本中が狂乱消費に踊った平成元年(1989年)。今の時代からは考えられないような驚くような世相を振り返ってみよう。

 この高田松原の隣接地に建てられていた、地上7階35室、宴会場や屋外プールまで備えた陸前高田市唯一の都市型リゾートホテルで、津波に堪えて残った市中心部の数少ない建物であった「高田松原シーサイドキャピタルホテル1000」がある。総工費23億円で開業が1989年4月だ。建物は残りはしたが、津波の被害は甚大で、同地での営業再開は無理と判断、2013年11月に700メートル離れた高台に全40室で移転、営業開始している。

 このホテルの名前にカギがある。1000とは千、出資者の1人となり、一時は「歌う不動産屋」と揶揄された陸前高田市出身の千昌夫氏である。ホテル建設のために設立された第三セクターに千昌夫氏も出資していた。ちなみに、千氏は1989年3月にイギリスで、投資金額2億5000万ドル(当時のレートで325億円)でホテル経営に乗り出すと報じられている。スケールはまるで違うのだが、バブルの空気の中で国内外に手広く投資をしていたことが分かる。

 1000ホテルは経営不振により2001年に負債総額13億円で経営破綻する。じつは千氏も不動産投資の失敗で前年の2000年に個人事務所が経営破綻するのだが、負債総額は1034億円と桁が2つも違う。ピーク時の借金総額は3000億円を超え、「1日の利息は5000万円」と豪語していた借金王だっただけあって、生まれ故郷のホテルをどうこうする余裕も経済合理性もまったくなかった。

 破綻後もハコモノとしてのホテル事業拡大に執念を見せていた当時の民主党系市長に対しては地元の不信がくすぶり続け、2003年に行われた市長選挙で自民党が支援する共産党系の市長が当選する(中里長門氏 在任は2011年まで)という珍事も起きた。

「陸前高田の迎賓館」と呼ばれたホテルはバブル崩壊に伴って市政を揺るがす負の資産から、いまや震災跡地を巡る観光客や地元の社交の場としての復興の象徴へと、その立ち位置がめまぐるしく変わっている。

 ホテルの名前に1000の文字は残されているが、いま千昌夫氏はまったく関係ない。念のため。