ジョルダン社長 佐藤俊和
Photo by Masato Kato

 学生運動が終わりかけていた1970年代、東京大学の学生だった佐藤俊和が通い詰めた、ある場所がある。東京大学計算機センター。コンピュータの“始祖”ともいえる大型計算機が鎮座する建物だ。

 佐藤の専攻は化学で、「実験室に行かずにすむ口実づくり」が目的だった。研究テーマである粉体工学の実験を、コンピュータでシミュレーションするプログラムを開発することにして、計算機センターに入り浸った。

 そのうち佐藤は、コンピュータにほれ込んでいく。完璧なプログラムづくりを目指して、開発に没頭した。

 同級生が大手化学メーカーに就職するなか、友人の誘いでコンピュータ開発のベンチャー企業、エス・ジーに入社したのは、自然な流れだった。同社は70年代初頭に、OS(オペレーティングシステム)を搭載したオフィスコンピュータを国内でいち早く開発した、気鋭の有望ベンチャー企業だった。

わずか入社3ヵ月で給料が遅配に
食うために仲間と独立

 ところが、エス・ジーの製品はまったく売れず、佐藤は入社から、わずか3ヵ月で給料遅配の憂き目に遭う。仕方なく外部からソフトウエアの開発を受託して食いつないだが、仲間が金銭的な理由で次々に退職していくのを目の当たりにする。

 佐藤は30歳を節目に、人生をリセットすることを決意。79年に「ジョルダン情報サービス」を立ち上げる。会社でリーダー的な立場だった佐藤に、有志数人がついてきた。

 ただ、会社のかたちを取ってはいたが、同じ看板の下で緩やかに共同営業する“フリーランスのソフト開発者集団”に近い組織でスタートした。貧乏が身に染みたこともあり「仕事がなければ役員は給与なし」を厳命し、受託開発を取りまくった。

 事業は順調だった。80年代に大ヒットしたアーケード・アクションゲーム「クレイジー・クライマー」や、79年に発売され日本のパソコンの先駆けとなった「NEC・PC‐8000シリーズ」向け英語学習ソフトなどを受託した。しかし、どれほど先端的な開発をしても社名は表に出ない。会社の看板で仕事をしたい思いが強まった。

 創業から10年たった89年、転機が訪れた。受託主体から自社ブランドでの開発製品の拡大へと、大きく舵を切ったのである。

 社名を「ジョルダン」に変える一方、社内体制を大きく改革した。それまでは渉外、総務経理、開発など、業務を全員で緩く分担していたが、責任範囲を明確にした。佐藤自身も、「仲間内での一応の責任者」から、渉外や新規事業などに責任を持つ「経営者」として意識を切り替えた。