とりあえず、20世紀最大のバブルを俯瞰した本書にあたっておくことは無駄ではあるまい。

「遇洪而開」とは『水滸伝』という物語の発端、百八の魔星が閉じ込められていた「伏魔之殿」に刻まれていた銘文である。洪大尉なる尊大な人物がこの祠を開いたがゆえに、魔星たちは好漢に姿を変えて世に飛び出し、梁山泊に集い朝廷に戦いを挑むのだ。

 彼らはかならずしも善人ではなかった。猟奇的な殺人者も妖しげな道術使いもいた。しかもその物語の結末は大団円に終わらない。朝廷の奸臣におもねる者、逃亡して出家する者などがあらわれ、梁山泊は四分五裂のあげく、最後には首領は毒をあおって自害するのである。

 本書はその『水滸伝』を彷彿とさせる、好漢たちが奏でる21のオムニバスだ。それぞれの節は読み切りで、しかも全体として一つの物語に仕上がっている。バブルの発端から終局までの悲喜交交を、運命と決断、先見と保身などの切り口で鮮やかに書き通している。まずは経済書としてではなく、人間ドラマとして楽しめる本だと断言しよう。

邪悪なる善は
甘い蜜に潜む 

 もう少し本書の中身を見てみよう。第2章「膨張」はプラザ合意を発端とした日銀による超金融緩和、大蔵省の特金・ファントラ放置、三菱重工転換社債事件における検察の不明瞭な幕引きなどの事象を取り上げる。バブルが兜町、丸の内、霞が関、永田町という日本橋を起点とした皇居を時計回りに巡る道、すなわち江戸時代から連綿としてつづく日本の中枢から引き起こされたことを描き出す。

 もちろん、バブル発生の原因をつくったのは当時の為政者の不見識によるところも大きいだろう。いっぽうで著者は国民の高揚感を背景にした、竹下首相による消費税導入や、中曽根首相によるNTTの民営化など、バブルが結果的にもたらした動きにも目を止める。バブルはデフレという毒薬だけをもたらしたのではなかった。

 ジャーナリストである著者は歴史のIFを語らない。しかし、もし消費税導入が遅れていたら日本の財政はどうなっていたのだろう。失われた20年の後になってからの導入では日本は本物の財政危機に瀕していたかもしれない。NTTからはじまる国営企業の民営化がなければ、通信や物流の競争は起こったのだろうか。

 つづく第3章「狂乱」では、いよいよバブル紳士たちが登場する。リクルートの江副浩正、イ・アイ・イの高橋治則、麻布土地の渡辺喜太郎、秀和の小林茂、光進の小谷光浩などである。物悲しくもそれぞれの節の最後には、彼らの墓碑銘のような文章が記されている。