33歳で会社を設立した吉村孝文は、建売りからマンション分譲まで、バブル景気に乗って拡大を続けた。ところが同業他社から数々の妬みを受ける。これがマスコミに報道され、苦難の時期を過ごす。金融機関や同業者などに翻弄されながらも、吉村は10年後の無料リフォームなど、無謀と思われる施策を打ち出す。新興デベロッパーが次々破たんしていくなかで、吉村の創建が生き残れた秘密は何なのか。
33歳のときに独立
3区画210万円の仕事から開始
建売りの会社で設計、工事、営業などを担当してきた吉村孝文は、1983(昭和58)年、33歳のときに「創建企画」を設立、大阪で創業する(2000年に「創建」に社名変更するので、社名は「創建」で統一する)。吉村が働いていた会社の社長は、吉村が独立するのに反対し続けていたが、いざ独立となったら陰に陽に支援してくれた。
最初の仕事はその社長から「土地の一つを任せるからやってみろ」と言われた3区画の仕事だった。企画・設計・工事をして引き渡すと、1区画70万円の報酬がもらえた。3区画で210万円だから、月30万円の生活費で7ヵ月食べていけた。
資金回収が難しい請負
「ジャンプ」を教訓に方向転換へ
会社を設立して2年ほどしたときに、ある会社の土地6区画を任された。企画・設計・工事で6000万円の仕事だった。先方の社長は吉村に「先付小切手」を渡した。経理にうとかった吉村は、深く考えずそれを受け取ったが、銀行の支店長に聞くと「きっとジャンプになる」という。「ジャンプってなんですか」と聞く程度の知識しか吉村にはなかった。
結局、ジャンプ、ジャンプで1円ももらえない。銀行の支店長から「1億円を貸してやるから、土地を買ってこい」といわれ、その土地を買い、建売りを売却してなんとか大損は免れたが、金利を含めて100万円の損だった。
請負は資金の回収が難しく、閉めてみたらマイナスということが多かった。仲介等でなんとか利益を出していたため大事にはいたらなかったものの、吉村に方向転換を決断させるに十分な教訓となった。
そこで自分で土地を購入し、下請に「代金を1割多く払うから、売却後の支払いにしてほしい」と協力をお願いした。このような形で建売り事業に参入した。当時は吉村ともう1人、パートの女性の3人だけの会社だったので、人件費負担も少なく、その後も順調に推移した。会社が飛躍するのは、バブルの到来によってだった。1棟売りマンションを始めると、業者がどんどん買っていった。需要はものすごくあった。