抑えきれない気持ちをのせて
“生き生き”と声を出す
理屈によって相手の感情に働きかけることも、できないことではない。あまりに見事な論の立て方に感じ入って、心を動かされることもあるからだ。
とはいえ、「印象深く」話すために、理屈をもってするのは原則ではなく、例外の領域であろう。相手の感情に働きかけるには、感情をもってするのが、常道というものだ。
感情を込めて話すためには、話し手がある出来事なり、事柄に対して、感情を動かされるところから出発する。
牧師の話である。
教会に来る信者たちの前で、牧師が話をすると、半分ぐらいの人たちが居眠りを始める。話があまりに淡々としているために、聞く者はつい、うとうとしてしまうのだが、牧師は、
〈自分は話が下手だから〉
と、あきらめていたという。
ある日曜日のこと。
いつものように、淡々とした口調で話を始め、まもなく、いつものごとく、居眠りが始まる頃、牧師は昨日テレビで見た、悲惨な交通事故の場面が、突然、目の前に浮かんだ。と同時に、言葉が口から飛び出していた。
「皆さん、ご覧になりましたか。昨日の幼稚園児の悲惨な事故を」
いつにない強い口調の牧師の言葉に、信者たちは、ハッとして注目した。
「みどりのおばさんが、旗を上げて、『はい、渡っていいわよ』と、ニコニコしながら呼びかけて、園児たちも、いかにも楽しそうに笑い声をあげながら、道路を横断する。そこへ、いきなり、トラックが突っ込んできたんですよ。あっという間に、子供たちははね飛ばされて、そこらじゅう、血の海です。天国だったのが、いっぺんに地獄と化しました。一体、こんなひどい、むごいことがあっていいものでしょうか」
牧師は、怒りで体が震え、手を上げ、声を振り絞って、叫んだのだ。別人のような牧師の話しぶりに、信者たちは目を見張り、そして、心を打たれた。それからあとの牧師の話にも、力がこもり、人々は深く聞き入ったという。牧師も、
「あのとき、わたしも気づきました。わたしの話に欠けていたものが、何であるかを……」