経営トップのあり方を学んだ頭取秘書としての日々
2009年12月7日、私は最高裁判所第二小法廷の傍聴席で裁判長の判決文の読み上げを待っていた。
「主文 原判決を破棄する。本件を東京高等裁判所に差し戻す」
日本債券信用銀行(日債銀 現・あおぞら銀行)の会長や頭取など3人の元役員に対する証券取引法違反事件(粉飾決算)の判決が下った。「なぜ最高裁は無罪と宣言してくれないのか」。私は、判決の不可思議さと落胆で力が抜ける思いだった。
それからさらに2年後の2011年8月30日、東京高裁の差し戻し審は、3人に対して無罪判決を下す。東京地検特捜部による逮捕から13年の時を経ていた。無罪確定後には、日銀元幹部が「東郷元頭取の無罪判決についてのお祝いの会」を催したが、その会場は青山のロイヤルガーデンカフェだった。ロイヤルホールディングスの社長となっていた私にとって感激のひとときだった。
私が大学を卒業した1988年は、まさにバブル絶頂期。資本市場のグローバリゼーションが加速し、多くの若者が銀行をめざしていた。そして私も同様で、かつ海外留学を夢見ていた。格好良く言えば「少数精鋭」で、簡単に言えば採用人数が100人ほどで競争が少ないという邪な考えもあり、私は留学の可能性のある日債銀をめざした。
初任地は名古屋支店。窓口や貸付など普通の銀行員生活が始まり、91年には念願の留学にこぎ着けた。留学先はフランスだった。帰国すると国際部で海外の貸付案件などを担当した後、大蔵省や日銀との調整窓口であり情報収集部署であるMOF担の助手を命じられていた。
31歳になったとき、私は突然、頭取担当の秘書役を命じられる。31歳の若造がなぜ頭取秘書を命じられたのか。理由はいまだに分からない。しかし、この職務と、頭取であった東郷重興さんとの出会いが、私の人生の大きなターニングポイントになった。
後にロイヤルホールディングスのトップに就任してからは、東郷さんの奮闘する姿が、いつも私の手本としてあった。
東郷重興さんが、日本銀行の国際局長からバブル崩壊後の不良債権を抱えた日債銀の経営再建のために迎えられたのは1996年5月のことである。翌年8月には頭取に就任し、旧大蔵省出身の窪田元会長と共に日債銀の再建に奔走する。しかし98年12月には公的資金が注入されて政府管理下の銀行になると同時に、東京地検特捜部にも逮捕されて辞任。そこから無念を抱えた長い闘いが始まる。
私は、東郷さんが頭取に就任すると同時に頭取担当の秘書役を命じられた。
東郷さんは頭取に就任すると、「リストラにもめどがついたので、これからは前向きに展開していこう」と、現場との距離を縮めようとした。そのために全国の支店行脚を始め、暗い雰囲気を振り払うかのように明るく行員を鼓舞する。その口癖は、「止まない雨はない。明けない夜はない」だった。
出張では、私を隣席に座らせ、芸能界の話題で盛り上がったこともある。頭取と秘書と言えばタテ系列の象徴のような関係になりがちだが、東郷さんにはそのような振る舞いはいっさいなかった。
東郷さんの頭の中には、ものすごい量のデータが入っており、そこから自分なりの結論を導いて人に説明する。そのロジックと説得力は「驚異」と表現してもいいほどだった。しかも「菊地君、これはこういうことだから、こうなっていくんですよ」と若い私にも話してくれる、分け隔てのない懐の深さがあった。
東郷さんは、純粋に再建のために一肌脱ごうと日債銀に来られた方だ。自らは1円の不良債権もこしらえていないのに、迷惑をかけた金融機関に赴いて深々と頭を下げる。その真摯な姿勢は、同行している私には「恩」を感じるほどのものだった。
また国会での参考人招致や長い不名誉な裁判闘争の間でも、一言も愚痴や泣き言めいた言葉は発しなかった。これこそが東郷さんのトップとしてだけでなく、1人の人間としての徳を示すものだった。
私は、初めて身近に接した大きな存在に、秘書という役割以上に、心酔していた。