◇蔵元が味を決める

 酒造りにおいて、蔵元はいわばプロデューサーであり、杜氏はディレクターである。

 当時、旭酒造における杜氏の高齢化は深刻な状況にあった。桜井は世代交代を図るため、蔵元になったその秋に、何も試すことなく杜氏を変えた。これは後から振り返ると、あまりにも稚拙な判断だ。実際、その杜氏は酒造りの基本的な技術すらもっていなかった。

 さらに、桜井はとんでもないことを思いついた。大吟醸をつくろうと提案したのである。小規模な仕込みで高品質、そして売上を上げるためには、大吟醸しかないという発想だった。

 大吟醸とは、酒米を50%以下まで磨いた酒に冠される名称で、その製造過程はかける手間は半端ではない。だから杜氏は桜井の思いつきを嫌がったのだが、桜井は一歩も引かなかった。杜氏はしぶしぶ大吟醸をつくった。それはあまりにひどい出来だった。

 だがこの時、桜井の頭のなかで革命が起きた。杜氏自身、大吟醸がなにかをわかっていないのであれば、造れと言われてもできるはずもない。ならば、自分の舌を信じるしかない。こうして、「酒造りの権限は杜氏がもつ」から「蔵元が味を決める」という、旭酒造の今にいたる体制ができあがっていった。

◆「獺祭」の誕生
◇レポート通りにやってみた結果

 その後、新しい杜氏が入ったことで、旭酒造の酒造りは大きく進化していく。この杜氏こそが「獺祭」のもうひとりの生みの親であり、桜井がプロデューサーとディレクターを兼任する前の、敏腕ディレクターにあたる人物である。

 最初の大吟醸造りで大失敗したにもかかわらず、桜井の頭のなかは大吟醸のことでいっぱいだった。もっとうまく造れば、美味しい酒ができるかもしれない。そう考えた桜井は、新しい杜氏にも「大吟醸を造りたい」と伝えた。困惑した杜氏は「造ったことがない」と返答するものの、桜井も譲らない。業界向けの雑誌に書かれていた吟醸酒造りのレポートを杜氏のところへ持っていき、「おやっさん、この通りに造ろう」と熱弁。杜氏も最終的には了解せざるをえなかった。

 こんないい加減なやりとりからうまれたにもかかわらず、できた酒は旨かった。このことを通じて、桜井は経験ではなく理論にもとづいたものまねをすることが、どんなに大切かを思い知った。

◇東京進出がはじまった

 ある日、たまたま東京を訪れた桜井は、大学のときの先輩とともに、純米大吟醸ばかりを揃えている店を訪れた。後日、それを縁として「旭富士」を送ってみたところ、注文がきた。東京への営業がはじまった瞬間だった。

 ただ、桜井は東京進出に手応えを感じつつも、「旭富士」という名前だとインパクトが薄いと考えた。新しい商品イメージをつくるためには、新しい名前が必要だ。悩んでいると、旭酒造のある「獺越」(おそごえ)という地名が目につき、そこから正岡子規の別号である「獺祭書屋主人」が頭に浮かんだ。かくして「獺祭」という酒が誕生した。

「獺祭」のラベルを貼った酒がいよいよ出た。精米歩合が50%のものと45%の純米大吟醸を用意し、四合瓶で1250円。大手メーカーの同様の酒が、4000円も5000円もした時代である。それでも桜井は売れるのだろうかと不安だった。