東京・五反田にある会社ビルの一室で、来期の事業計画策定のため、熱い議論を交わしていた。

「事業化するにはお客様の要求にどれだけこたえるかを可視化し、採算性を明確にしなければ、事業として成り立たない。それじゃダメだな」

 と私は思いのたけを伝えた瞬間、めまいを覚えたかのような今までにない大きなふらつきを感じた。しかし、そのふらつきは、体全体に広がり、会議に参加していた私を含めた3名ともが「地震だ」と叫んだ。

「このビルは決して新しくはない。倒壊するかもしれない」

 私の声に、会議に参加していたメンバーが、あわてて社屋にいるすべての社員に声をかけ、階段を駆け下り、ビルの外へ飛び出した。路上から見上げるとビルや電信柱のゆれが続いていた。私は千葉・幕張で展示会に出展していたわが社のブースへ携帯電話をかけたが、回線がつながらない。前の週にも結構大きな地震があったばかりだったから、いつもの東京の地震だと思い込んだ私は、会社の車で山手線の五反田から幕張へ向かうことにした。しかし、山手線は止まっていて、駅周辺では人ごみがあふれ、道路は渋滞が始まっていた。

「これってひどい地震じゃないかな、震源地はどこかな」

 と社員に声をかけた私は、ただならぬいやな予感を覚えた。

「あまりにもゆっくり大きい動き、これって阪神大震災とは異なる別のもの…」

 結局、幕張への移動を断念した私は、新橋にある常宿のホテルへと向かった。しかし、再び大きな揺れに車は襲われ、前の車の停止に合わせて私が乗る車も路上に止まってしまった。まわりの車から人々が飛び出し、車道の中央に人が集まりだした。私も車を降り、多くの人だかりのあるビル一階のテレビモニターに目を走らせた。そこに映し出されていたのは日本列島の太平洋岸すべてが赤く点滅し、その画面の下に大津波警報と大きな文字が映し出されていた。それは、東日本で大地震と大津波、原子力発電所の事故が起こった瞬間であった。そして、われわれの想像を超えた災難が日本中、さらには世界中を震撼させることになった。

 その数日後、ある知人の産業医から電話が入った。

「先生、安定化ヨウ素製剤はお持ちでしょうか」

 という内容であった。新型インフルエンザが流行したときにはタミフルであったが、今回は安定化ヨウ素かと思った私は、所属している病院へ電話を入れ、病院長に聞いた。

「安定化ヨウ素製剤って病院で在庫していますか」

「病院は数人分しかないので、入手できるか確認します」