大正時代から現代まで、その時代の経済事象をつぶさに追ってきた『週刊ダイヤモンド』。創刊約100年となるバックナンバーでは、日本経済の現代史が語られているといってもいい。本コラムでは、約100年間の『週刊ダイヤモンド』を紐解きながら歴史を逆引きしていく。

 前回は近衛文麿(1891-1945)首班による3度の内閣のうち、第2次内閣、第3次内閣(1940年7月22日-41年10月18日)を描いた。

「近衛新体制」による単一政党づくりは失敗、近衛首相本人も中途半端なまま手を引き、代わりに大政翼賛会ができる。近衛首相はけっきょく日米交渉に失敗し、開戦直前に辞任してしまう(連載前回参照)。

 今回は第1次近衛内閣(1937年6月4日-39年1月5日)の成立直前、1937年初頭へさかのぼる。

組閣、辞職などが軍部の意のままに…
自由主義的資本主義を制限する「革新」の芽生え

 柳条湖事件(満州事変、1931年9月)、そして「満州国建国宣言」(1932年3月1日)から5年、「準戦時体制」下で経済統制が進んでいた時期だ。この間、陸軍の一部によるクーデター未遂事件(1931年3月、10月)が起き、血盟団事件(1932年2月)、5・15事件(1932年)、2・26事件(1936年)と大事件が続く。

 立憲政友会の犬養毅首相が5・15事件で殺害されると、その後は議会を代表する政党内閣は崩壊する。閣僚の大半は軍部、官僚、財界、政党からピックアップされ、首相は元老西園寺公望が選び、天皇が「大命降下」(指名)していた。

 軍部、官僚、財界、政党のパワーゲームといえようが、圧倒的に軍部が強い。とくに1936年には「軍部大臣現役武官制」が復活し、組閣、辞職まで軍部の意のままになっていた。

「近衛新体制」運動はこのような時期に動き出していた。1940年の第2次内閣で盛り上がり、やがて消滅していくが、第1次近衛内閣の直前、すでに「革新」は流行語になっている。

 簡単に言えば、軍部とのベストミックスを考え、生産力を国防(中国・朝鮮半島を含む)へ集中するため、自由主義的資本主義を制限するということだ。これが「革新」(現状打破)である。反対に保守反動(現状維持)とは「自由主義的資本主義」を意味する。