大正時代から現代まで、その時代の経済事象をつぶさに追ってきた『週刊ダイヤモンド』。創刊約100年となるバックナンバーでは、日本経済の現代史が語られているといってもいい。本コラムでは、約100年間の『週刊ダイヤモンド』を紐解きながら歴史を逆引きしていく。
近衛文麿(1891-1945)は3回組閣している。いずれも日本の死命を決する段階で組閣した。
第1次近衛内閣は1937年6月4日から1939年1月5日まで、第2次内閣と第3次内閣は連続し、1940年7月22日から1941年10月18日までである。今回は近衛内閣の時代を逆引きする。
貴族ながら大衆的人気があった近衛文麿
挙国一致をめざす「新体制運動」へ
近衛文麿は五摂家の近衛家に生まれた。父親の近衛篤麿(貴族院議長、学習院長1863-1904)が41歳で病没すると、わずか13歳で公爵となった。学習院から第一高等学校へ進学し、卒業後は東京帝国大学文学部を経て京都帝国大学法学部へ転学した。秀才のプリンスである。
身長180cmを超える長身で、立ち居振る舞いは貴族そのもの。京都でも東京でも芸者によくもてて遊びもよくし、頭もよい。社会主義から自由主義まで論文もよく書き、総合雑誌に掲載されている。大衆的な人気があり、いずれ首相になると目されていたという。
近衛をめぐる1930年代後半の政治的な風潮を想像することは今や困難だが、右翼から左翼まで巻き込んで、近衛を首班とする新しい政党をつくり、挙国一致のまったく新しい国家体制をつくろうという運動が起きた。これを「新体制運動」といい、政治体制を「近衛新体制」という。
独占資本、すなわち財閥の市場支配力によって国民の貧富の格差が拡大した、という右翼と左翼の認識があった。財界は自由主義的な資本家が活躍していた時代である。独占資本主義を修正しなければならない、という認識が官僚を含めて広がっていた。
一方、ナチス・ドイツは欧州を席巻し、オーストリア併合(1938)やチェコスロヴァキア併合(1939)を進めた時期である。欧州の新情勢に対応し、日本も新しい政治体制が必要というわけだ。第1次近衛内閣発足後、1937年11月には日独伊三国防共協定に調印している。