党派による革命運動は
だめだと分かった

――当時のことを書いた本を読むと大人びた集団に思えるが、みんな20代だったんですよね。

 そうですよ。私なんか21か22歳。考えたら子どもですよ。体力があるからやれることもあった。

――当時の行動について。「集団狂気」という言葉では説明つかないですか?

 そうではないと思う。ロシア革命以降の、革命が抱える問題が日本でも出てきたということですよ。私自身も党派人間に変えられていった。変わらざるを得ない。山に入る(編集部注:山岳ベース事件)まではせめぎ合い。女性を逃がしたり、それなりの努力はしました。でもそのあたりが限界でした。

――党派人間から解き放たれたなと思ったのはいつぐらいだったんですか?

 捕まってから、この問題を考えなければならないと。党派がする総括はやはり僕には了解できなくて。で、論争する中で、党派人間からだんだん解放された。最初のころは党派が主導権をとらない限り、革命なんてできないという固定観念からなかなか抜け出せませんでした。結局、塩見孝也との論争の中で、「党派とは、党とはなんぞや」ということになって。

 党による革命というのは結局、一党独裁体制をつくるしかない。つまり国家による社会主義。本来の意味での社会主義ではないというところにたどり着いて、「やれやれ」と。それからはもう党派による革命運動はだめだと分かった。それに対抗する形でかつて行われた全共闘運動がどういうことだったのかを逆に考えるようになって。

 今の政治問題にも関わるけど、かつての党派政治が、今は政党政治になり、限界にたどりついている。これを乗り越えるためにはどうしたらいいのか。そこで全共闘運動、一種の自治運動。それがこれからの一種のスタイルとして、新しい運動の方向として追及すべきではないかという思い。個人でもって、自分自身の意見を言う。当時の活動家というのは大して勉強もしてないくせに、党派の理論を言う。それに対して、疑問を持っていたのは確か。好きじゃなかった。

――逮捕後、自供を始めるまで。

 私は最初カンモク(完全黙秘)。森さんの自供があって私も話し始めました。でも党派人間は超えられなかった。当時自供を始めたのは、「この野郎」と頭にきた面もあるけど、自供する過程で事実関係をきちんと残しておきたかった。それが最大の目的。取り調べをする刑事に「(調書を)書け、書け、書け」と。逆に、刑事が勘弁してくれというぐらい(笑)

――いま国内にいる当時の関係者と会うことはあるのですか?

 もちろんありますよ。運動としての交流ではなくて、人間関係としての交流。当時の問題について語ることもたまにはあります。

――ところで植垣さんはもう活動家ではないのですか?

 何をもって活動というかですよね。いわゆる左翼組織の党員としての活動というのはない。個人として、関われる範囲内で関わっています。いろんな問題について語ったり書いたりしている。

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