1972年に「あさま山荘事件」を起こすなど、あの時代に強烈なインパクトを残した極左暴力集団(過激派)の一つ、連合赤軍。殺人罪、死体遺棄罪、強盗致傷罪など計31の訴因で起訴され、懲役20年の刑を受けた元連合赤軍活動家、植垣康博さんに左派の衰退や事件について聞いた。第2弾のテーマは出所後の20年、左派政党、憲法など。(「週刊ダイヤモンド」編集部 土本匡孝)
→(1)から続く
出所後は外国に来た気分
酒のおかげで溶け込めた
――出所した途端、「地に足がつかない」という感想だったと植垣さんの著書で拝読しました。
出てからは四苦八苦でした。生活費稼ぎで。
とにかく、外国に来たような気分。街の雰囲気が全然違う。会話が成り立たない。出てからの「塀」の方がはるかに高いなあと思いました。そんな中、だんだん世の中に溶け込めるようになったのは酒があったから。酒が入れば相手もだんだん本音で話す。最初は頼まれて始めた夜の商売でしたが、今考えればこれが正解だったのかな。いつまでやっていていいものかなとも思うが。書くこともちゃんとやらないといけないから。でもなかなか両立できません。
――出所した1998年の政治情勢。その前には社会党政権もありました。
政界再編とか、なんとかは塀の中で聞いていました。でも議会内でのごちゃごちゃは大して意味は無い。むしろ、この政党政治からどう脱却していくのかなという思いで見ていました。その中で、私なりにいけるなと思ったのが、インターネットを使った情報発信。これで交流を作っていく。思えば大学闘争の時代は固定電話でさえ、ろくにできなかった。他の大学との連帯でもわざわざそこに行かないといけなかった。大学闘争としても、結局各大学で孤立した闘いになってしまったかなあと。東京はある程度共闘できたけど、弘前大学とか田舎は……。
――今の大学は新左翼の拠点としての機能はほとんどないようです。大学紛争も下火を極めています。
当時、私たちが一番反対したのが産学協同。特に大学でも就職問題が問題になっていく中で、共産党は学生の完全就職実現というスローガンを出してきました。それに対して、「就職は個人的行為だ」「大学の自治をいかにつくるかが問われている」と言って、大学紛争でぶつかりました。弘前大学でも盛り上がりました。